小さな村 1
――早朝。
教会のキッチンで、そわそわとしながらオーブンの前に立つシモンは、明るくなった窓に近寄り外を眺めて気を紛らわせる。
夜のうちに降ったのだろう。
粉砂糖を思わせる細かな雪がうっすらと積もり、外の景色を冬の薄鈍色に彩っている。
「……あ」
シモンが視線を投げた先。
天を覆う厚い雲の切れ目から、柔らかな朝陽が零れていた。
幾本もの光芒がまっすぐに地上に伸びて、大地の細雪を玻璃の如くきらきらと輝かせている。
(天使の梯子だ……)
淡い光の織り成す幻想的な景色にぼんやりと見惚れ、感嘆の吐息を洩らすシモンに、声がかけられた。
「ねぇ、シモン。まだなの?」
まろやかに響く澄んだ少女の声に、シモンは首を巡らせる。
煌めく雪と見紛うほどに美しいまっすぐな銀糸の髪を耳に掛け、ダイニングテーブルからシモンを横目で見つめるのは、可憐な少女。人を模る妖精猫だ。
隣の席には、まだ目の覚め切らない様子のセオバルドが、シモンの淹れた温かな紅茶に口を付けている。
「うん、そろそろかな……?」
オーブンに向き直り、シモンはゆっくりと扉を開く。
扉の内側から熱気が流れ出し、オーブンの前が春の陽だまりのようにぽかぽかと暖かになる。小麦とバターの香りがふんわりと漂い、キッチンを包み込んだ。
シモンがオーブンから取り出したのは、ほんのりきつね色に焼き色がつき、ふっくらと膨らんで上下に割れたスコーンだ。熱々のスコーンをトングで皿に盛りつけて、木苺のジャムと泡立てた生クリームを用意する。
それらをテーブルに運んだシモンは、セオバルドのカップに紅茶のお代わりを注ぎ、椅子に腰かけた。
たった今オーブンから取り出されたばかりのスコーンを眺めるシェリーは、心配そうに柳眉をひそめた。
「……熱そうだわ」
呟くシェリーの隣で、シモンは焼き立てのスコーンを上下に割った。
その途端、蓋を取った鍋のようにスコーンから白い蒸気がふわりと立ち昇り、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
期待に満ちた眼差しのシモンは、わくわくしながらスコーンにたっぷりの生クリームを乗せて、ひと掬いした木苺のジャムを、その上にとろりと落とす。
大きく口を開けて、ぱくぅ、っとスコーンを頬張る。
「んーっ!!」
シモンは、驚いて大きく目を瞠る。手に持ったスコーンを凝視して思わず唸る。
外側が丁度良くかりかりに焼けたスコーンは、さくっとした軽い歯ごたえを残し、口の中に入れた途端ほろほろと崩れていく。
バターと小麦の香りが温かな蒸気と共に口いっぱいに広がり、ほのかに甘酸っぱいジャムがまろやかなクリームにとても合う。
紅茶を口に含んで、こくん、と口の中のものを呑み下し、ほぅ、と至福の一息を吐く。
木苺のジャムと紅茶の香りが合わないはずがなかった。
さっぱりとした、香りの良い紅茶がスコーンの後味を包み込み、最高の調和を醸し出す。
口の端に生クリームを付けたシモンに露骨に嫌そうな顔をするシェリーは、棘のある口調で不満を呟く。
「ジャムとクリームを塗る順番が逆じゃない……。クリームが溶けてしまうわ。大体塗り過ぎ、一度に口に入れすぎよ」
大満足のシモンは、幸せに顔を綻ばせる。
「それも美味しいけれど、生クリームだったら、僕は先に塗るのがいいの」
クロテッドクリームよりも柔らかな生クリームは、よく生地に馴染む。
ほかほかのスコーンに緩い生クリームがほんのり溶けて、しっとりと染み込んでいくのが好きなのだ。
クリームが口の横に付いているのに気づいたシモンは、それを指で拭って口に運ぶ。
スコーンの荒熱が冷めるのを待ちながら、シェリーは澄んだ紫水晶のような瞳を険しくさせる。
「ちょっと……! やめてよ、はしたない!」
「シェリーだって、手を舐めるのに」
美味しいものを食べて気分が高揚し、珍しく反論したシモンに、シェリーはいよいよ目を吊り上げた。
「そういう問題じゃないのっ! それは妖精猫の姿の時でしょ!? 人の姿の時はちゃんと人間のマナーを守っているわ!」
食って掛かるシェリーに、きょとんとしたシモンは軽く目を瞠る。
「すごいね。そういうの、どこで覚えるの?」
人間の自分よりもよほどマナーに詳しいシェリーに、感心したシモンは素直に賛辞を口にする。
だが、言い終えるや否や、シモンの関心は既に皿の上のスコーンに移っている。
「あ、シェリー。隅っこの方、もう冷めているよ」
「余計なお世話よ!」
マナーの話か、スコーンの話か、あるいは両方か。
シェリーは不機嫌に言い放ち、荒熱の取れたスコーンに手を伸ばした。
目前で繰り広げられる声の応酬を避けるように顔を伏せていたセオバルドは、溜め息を吐いてゆっくりとカップを口に運ぶ。
焼き立てのスコーンを眺めるも、手を付けようとはしない。
眠りと覚醒の境にあるセオバルドの胃が、スコーンを受け付けないのだろう。脂肪分のあるクリームも、少々重そうだ。
シェリーの目を意識するシモンは、口許をナプキンで拭う。
「先生はスープの方がいいですよね。野菜のスープが温まっているので」
席を立って手を洗い、鍋の中から柔らかくなった野菜を少量取り分ける。朝に弱いセオバルドの為に、根菜は小さめに切り、葉野菜を多めに軟らかく煮たものだ。
スープを皿に注ぐと、ふわり、と優しい香りを含む湯気が立ち昇った。
シモンはスープの皿とスプーンをセオバルドの許へと運ぶ。
「……朝、スコーンは珍しいな」
スープに一口手を付けたセオバルドが、ぽそっと小声で呟いた。
着席し、残っているスコーンに手を伸ばしたシモンは、まだ温かなそれを割ってクリームをたっぷりと乗せる。
「パン屋の奥さんにハーブティーを差し上げたら、木苺のジャムと紅茶と小麦をおすそ分けしてくれて、レシピも教えてもらえたんです」
嬉しい頂き物をしたのだと、声を弾ませたシモンは幸せに笑み崩れる。
「折角だから、早く食べてみたくて」
スコーンのレシピは、家庭ごとに少しずつ違う。
教わったレシピで焼いたスコーンは、シモンが祖母から教わったものとはまた違う仕上がりになったのだ。
「そうか」
小さく相槌を打ったセオバルドは、柔らかに目を細めて微笑する。
「ハーブティーの対価みたいなものね」
冬の景色のごとく飾り気なく、吹き抜ける冷たい北風のように淡々とした口調で、即座にシェリーが横から口を挟む。
「シェリー、世知辛い」
口を尖らせるシモンに、ふん、とシェリーはそっぽを向いた。
「シモン。今日、この後だが……」
「今日?」
セオバルドに視線を転じたシモンの手許。スコーンに乗せられたクリームがとろけて、ぼた……と皿に落ちる。
皿の上に広がったクリームを名残惜しく見つめるシモンに、だから乗せ過ぎなのだと言わんばかりに、シェリーが刺々しい視線を浴びせた。
セオバルドは周囲の状況を一切目に入れない様子で、言葉を継ぐ。
「……この後、出かけるから支度をしておくように」
「どこへ行くんです?」
スコーンの熱で温められた皿の上で、液体状になったクリームを諦めたシモンは、セオバルドと視線を合わせる。
「馬車で半日程かかる、小さな村だ」
「はい。……ずいぶん遠いですね」
それに、急だ。
何かしら説明があるのだろうかとシモンは待つが、セオバルドはスープを飲み始めて、会話はぷつりと途切れる。
シェリーは驚くでもなく、口を挟むのでもない。関心の無さを表すように黙ったまま。そんなシェリーの顔を、シモンは覗き込む。
「シェリーは?」
尋ねられたシェリーは、たおやかな手つきでカップを持ち上げ、ホットミルクを口に含む。きちんと嚥下してから優美な仕草でナプキンを手に取り、口許を拭った。
次いで、ちらりとシモンを一瞥する。
澄んだ紫の瞳の奥に、微かな嫌悪を覗かせたシェリーは。
「行かないわ」
素っ気なく、簡潔に言い放った。
*スコーンに乗せるジャムとクリームの順番について。
シェリーはジャムが先だと言っていますが――。
地方により、ジャムが先でクリームが後、クリームが先でジャムが後と二通りあるようですが、正解はなく好みだそうです。




