眠れない夜 2
「シモン?」
シモンの他には誰もいなかった、静かすぎるキッチンに響くのは、セオバルドの声。
不意に声をかけられ、神経を張り巡らせていたシモンの心臓が、どきりとして跳ねる。
直後。
がんっ、と盛大な音を立てて、ダイニングテーブルが微かに揺れた。
驚いた拍子に立ち上がろうとしたシモンが、ダイニングテーブルの縁に頭を打ち付けたのだ。
反射的にぶつけた部分を庇い、片手を当てるシモンに、セオバルドが声をかけた。
「……大丈夫か?」
被っていた掛布団がクッションとなり、派手な音の割に頭は痛くない。
痛みよりも驚きの方が勝るシモンは、どきどきする胸を押さえてその場にへたり込む。
深呼吸をして心を落ち着けようとするのだが、動揺は激しく、収まらない。
「先生!? お、驚かさないでください……!」
吃驚するじゃないですか、とシモンはダイニングテーブルの下からセオバルドに抗議の眼差しを向ける。
手燭越しに見下ろしてくるセオバルドの青い瞳と、視線がかち合う。
勝手に驚いたくせにと言わんばかりに、セオバルドは眉をひそめた。
「こんな遅い時間に、何をしているんだ」
セオバルドからすれば、深夜のキッチンに忍び込むシモンの行動は、不審以外の何ものでもない。
盗み食いをしていると、誤解されてしまうかもしれない。
はっとしたシモンは、弁明しようと焦る。
「シェリーを……、っ!」
慌ててダイニングテーブルの下から這い出し、立ち上がろうとして、シモンは被っていた掛布団の隅を思いきり踏みつけた。
「わっ……!」
掛布団が足先に絡まり、もつれる――!
躓いてバランスを崩したシモンは、よろけた拍子に掛布団を手放した。
薄い寝衣を通して、ひやりと冷たい夜の空気が肌に触れる。
咄嗟に差し出されたセオバルドの腕に受け止められ、両手で彼の腕にしがみ付いたシモンは、転倒を免れた。
深夜にキッチンに忍び込んでいるところを見つかり、慌てふためき転びかけ、失態を晒し続けたシモンの頭に一気に血が上った。
かぁっと顔が火照り、思考が停止する。
「す、すみません!」
とにかくセオバルドに身体を預けている状態から脱しようと、シモンは無我夢中で足を動かした。
どちらの足で掛布団を踏んで転びそうになったのか、どうやって立ち上がったのかも瞬時にして頭から吹き飛んだ。
思考停止状態のシモンは、あたふたと身体をまっすぐに正す。借り物のように感覚の鈍い手足を動かし、床に落としてしまった掛布団をぎこちなく拾って頭から被った。
振り返ると、セオバルドはシモンを助け起こした姿勢のまま、硬直している。目を瞠り、驚いた表情で沈黙している。
(……?)
勢いよく転びそうになったことで、驚かせてしまったのかもしれない。
シモンはセオバルドに一歩近寄り、顔を覗き込む。
「先生? あの、暗くて躓いてしまって……。ありがとうございました」
声をかけてもシモンの身体を支えた手を下ろさず、固まって動かないセオバルドに、シモンは不安になる。
手を痛めてしまったかして、違和感があるのだろうか。
「……先生?」
シモンの声が遅れて届いたかのように、セオバルドはゆっくりと顔を上げた。
戸惑いの表情を浮かべるセオバルドと、シモンの視線が合う。
心配するシモンが、おずおずと尋ねた。
「手を……、痛めたのですか?」
食い入るようにシモンの顔を見つめたセオバルドは、優に一拍の間を置いて。
「え? ……いや、大丈夫だ」
生返事を返し、深く息を吐き出した。
驚かせてしまったが、怪我はなく、怒らせてしまったわけではなさそうだ。
安堵の吐息を漏らし、ほんの少し力が抜けたシモンは、躊躇いがちにもごもごと切り出した。
「先生、シェリーを探していたんですが、見かけませんでしたか?」
「……私の部屋で、寝入っているが」
「そう、ですよね……。こんな時間ですし」
どうりでセオバルドの部屋の前で呼び掛けても、返事が無かったわけだ。
気持ちよく眠っているところを、シモンの都合で起こしてしまうのは忍びない。
シェリーを部屋に誘うことを諦めて、シモンはあからさまにがっかりした。
「どうした?」
気遣う口調でセオバルドに尋ねられて、シモンは憂鬱な気分で瞼を伏せる。
「ユアンさんから貰ったぬいぐるみなんですけど……。あれ、何でしゃべったんですか? ユアンさんが『捨てても戻ってくる』って言っていたんですが、本当ですか? ……考えていたら眠れなくなっちゃって」
納得のいく答えが得られれば、すっきりとして眠れるかもしれない。
そんな思いで、シモンはユアンに訊けなかったことを、セオバルドにぶつけた。
憂えるシモンに、しばらくの間黙ったセオバルドは、合点がいったように軽く目を閉じて頷く。
「ユアンは道具師だが、人形を作る人形師でもある。自分の作った人形に術をかけて傀儡とするのも、お手の物だ。ユアンは君にぬいぐるみを放る直前に、術を掛けていたから……。ぬいぐるみが声を発したのは、ユアンが魔力で繋いで、術で操ったに過ぎない」
「術……?」
シモンは、ぱっと顔を跳ね上げた。
「じゃあ、ぬいぐるみを捨てても、戻ってくるっていうのは……?」
ぼんやりと理解しかけて、大きく目を見開くシモンに、セオバルドは「ああ」と相槌を打つ。
「ぬいぐるみに自我や意思があるわけではなくて、魔力によって縛られ、君に引き寄せられるのだと考えればいい」
「うぅ……っ」
魔力を介した術によって、ぬいぐるみと紐付けされていたのだと知り、シモンは顔を引き攣らせて小さく呻く。
説明を受けて納得し、ぬいぐるみに対する苦手意識は、若干和らいだが……。
「でも、人形師って……。ぬいぐるみの造形があんなふうなのに……?」
気味の悪いぬいぐるみと、人形師という言葉が繋がらない。
人形といえば、綺麗なドレスを纏う愛らしいもの。金持ちの子供たちが持つ、高級玩具が最初に思い浮かぶ。
ユアンの作る人形は、みんな怖い風貌をしているのだろうか。
困惑するシモンは、眉尻を下げて小首を傾げる。
「何か意図があって、そう作ったんだろう。ユアンの手掛ける人形は、どれも精巧で、芸術の域に達するものだ」
セオバルドは、ぬいぐるみの見た目など、まったく気にする様子もない。シモンの疑問を払拭し、「だから……」と言葉を継ぐ。
「そんなに怖がらなくても、ぬいぐるみには何も憑りついていないし、呪われてもいない。見た目が気になるなら、いつも持ち歩いている鞄にでも入れておけばいい。早く寝なさい」
セオバルドに心情を見透かされたシモンは、びくりと肩を震わせて凍り付く。
しん、と無音になったキッチンでセオバルドに見据えられ、腹の底からじわじわと湧き出した羞恥心が、シモンの身体を浸してゆく。
『シモン』は、十四歳の『少年』だ。
普段から人ならざるものを散々見ておきながら、今更小さなぬいぐるみが怖かったなんて、体裁が悪い。
そこは、どうしても否定しておきたい。
「あ、……あの、違……」
しどろもどろと歯切れ悪く、シモンは声を絞りだす。
――だが。
真顔のセオバルドは、確信を持った声できっぱりと言った。
「それが怖かったから、シェリーを探していたんだろう?」
ぬいぐるみを受け取った時から、怖がっていたのだから、と。
痛いところを突かれて、衝撃を受けたシモンの目が丸くなる。気恥ずかしさから顔を火照らせたシモンは、掛布団を掴む両手にぐっと力を入れて、セオバルドに一歩詰め寄った。
「ち、違……っ、違いますよ? そんな全然っ! 本当に違うんです! あんな小さなぬいぐるみですよ? こっ、怖いだなんてまさか! 別に怖いとかそういうのじゃなくて……、夜中に動いているぬいぐるみと目が合ったら、ちょっと怖っ、こー……、こう! そうっ、なんていうか、嫌だなって。だって顔がちょっとホラー……、ほら! せっ、先生も嫌ですよね!? 夜中にさっきみたいに声を出されたら目が覚めちゃいますよね!? 仕組みがわからないのが気になっただけですからね? 先生?」
勢いに任せて、必死の形相で訴えるシモンに、セオバルドはくすりと笑った。
「……そうか。なら、こんな時間にシェリーを探していた理由は?」
目を細め、淡く微笑むセオバルドの声音が、柔らかなものに変わる。
「他に理由があるのなら、聞こう」
尋ねるセオバルドの口調は、揶揄するものではなかったが、楽しげな響きを帯びる。
「えぇ、と」
落ち着きを払ったセオバルドに反応を窺われて、シモンはいたたまれない。
むきになって饒舌に否定したものの、シェリーを探していた他の理由がすぐに思い浮かばない。
セオバルドと目を合わせていられずに、シモンの視線は宙を彷徨う。
(理由、理由、理由……)
ちらりと視線を戻しても、セオバルドは答えを促すような眼差しをシモンに寄越したまま。
質問を撤回してくれる気は、なさそうだ。
「そっ、それは――」
ぐぅっと言葉を詰まらせて、額に嫌な汗を滲ませたシモンは、難しい顔をして考え込む。
逸らされることのないまっすぐな青い瞳に、答えを急かされたような気持ちになる。
「さ……っ、寒い? ……から?」
考えのまとまらないまま、焦燥感から口を衝いて出た言葉は心許なく、思わずセオバルドに尋ねるものとなった。
はっとして、シモンは後悔するが、もう遅い。
軽く俯くセオバルドは片手で口許を覆い、声を忍ばせてくっくと笑った。
シモンはあまりの羞恥と情けなさから、心の中で思いきり悲鳴を上げる。これ以上ないくらいに顔が火照り、真っ赤になった顔を伏せて隠す。
いまさら何を言っても、墓穴を掘るだけだろう。
観念したシモンは、口をつぐんだ。
笑い終えて一息ついたセオバルドは、黙り込んだシモンに一歩近づき、穏やかな口調で言った。
「それなら、また風邪をひいて寝込む前に部屋に戻ることだな。……寝込むことになったら、君は困るだろう?」
手燭を持っていない方の手をシモンの背に軽く添えて、キッチンから出るようにと促す。
小さな炎を灯す手燭が、セオバルドの手を離れて、ふわりと軽やかに宙を舞った。
手燭はシモンの少し先にゆっくりと下りて、足許を照らしながら先導し始める。
意気消沈して項垂れたシモンは、心ここに在らず。
「はいぃ……」
消えりそうに、力ない声で返事をする。
小さな炎の後ろを、セオバルドに付き添われて歩くシモンは、とぼとぼと部屋に戻った。




