冬の風邪 1
「シモン、起きなさい。キッチンが寒いわ」
すぐ間近で、不機嫌な声がする。
ずんっと胸に圧し掛かる重みに、シモンは息苦しさを覚える。
うーん、と唸り、少しの間を置いてから瞼を薄く開けると、目の前に迫るのは妖精猫の小さな顔。
眠っていたシモンの掛布団の上。……ちょうど胸許辺りに前足を折り畳んで伏せているシェリーの姿があった。
首筋と肩に冷気を感じたシモンは、ふるふるっと身体を震わせる。掛布団の端を両手で掴んで、身体を布団の奥へと滑り込ませる。
詰まっている鼻がむずむずして、くしゅん、と布団の中でくしゃみをする。
そういえば、昨夜から、やたらにくしゃみの回数が多かったと、シモンはぼんやりと考える。
シェリーは掛布団に前足をかけて捲り、シモンの顔を覗き込む。
「どうして布団に潜るのよ」
「……重いよ、シェリー」
「折角起こしに来てあげたのに、失礼な子ね」
シモンの胸の上からどかずに、シェリーはすぅっと目を細める。
――迷い込んだ森からセオバルドと戻って、二日後の朝。
すっかり明るくなった窓の外を見て、シモンは目を瞬かせる。
いつもよりも、大分遅い時間に目を覚ましたのだと気づいた。
「あれ? 寝坊した……? あ、だから……」
シェリーは、シモンを起こしに来たのだ。
はっとしたシモンは、ぱちっと目を開く。
「シェリー、先生は!?」
そうねぇ、とシェリーは窓の外を一瞥する。
「そろそろ、起きる頃かしら?」
「大変!」
雇い主であり、師でもあるセオバルドよりも遅く起きるわけにはいかない。ましてや、寒いキッチンで彼を待たせるなんて、とんでもない。
すぐにお茶を出せるようにお湯を沸かさないと……。
温まっているのか、布団から降りようとしないシェリーを両手で抱き上げ、枕元へと移動させたシモンは、急いで上半身を起こす。
足をベッドから床に降ろして立ち上がると、心なしか身体が重い。
加えて、あちこち痛む身体にシモンは一瞬動きを止めて、小首を捻る。
……寝すぎたのか。それとも、寝方が悪かったのだろうか。
「シェリーごめん、起こしてくれてありがとう。先にキッチンへ行ってくれる? 僕もすぐに着替えて行くから」
ベッドから、とんっと下りたシェリーは、ちらりとシモンを振り返る。
「起こしてあげたのだから、ホットミルクにブランデーを入れて頂戴」
「うん、わかった」
部屋の扉の隙間からシェリーが外へ出て行くのを見送ったシモンは、そっと扉を閉めて身支度をした。
キッチンでセオバルドにお茶を出し、シェリーにブランデーを二滴落としたホットミルクを出して、シモンも椅子に腰かける。
マグを両手で包み込み、温かなお茶から白い湯気が立ち昇るのを、シモンはぼーっと眺める。
頭がぼんやりとして、動きの緩慢な身体は妙に気怠い。
「あなたの朝が遅いから、ちっともキッチンが暖まらないわ」
不満げなシェリーの声が少し遠く、他人事のように聞こえる。
マグに目を落としたまま、シモンは相槌を打つ。
「……ん、……ごめん」
「寝坊するなんて、本当にお子様なんだから」
「…………」
「聞いているの?」
「……ん?」
よく聞こえなかったシモンは、マグからのろのろと目を上げてシェリーに訊き返す。
朝は殊更に口数の少ないセオバルドが、時々お茶を飲むためにマグを持ち上げる以外に動きのない、静かな時間がゆったりと流れた。
「なんだか……変ね」
歯切れの悪い口調で首を傾げるシェリーは、シモンをじっと見つめて考え込む。
たっぷりと間を取ったシモンは。
「……うん?」
黙ったままのシェリーに、吐息混じりの声で先の言葉を促す。
小さな額に皺を寄せたシェリーは、シモンの顔を見つめて、嫌そうな顔をした。
「変よ。気持ち悪いわ」
「気持ち悪いの?」
具合でも悪いのかとシモンは心配になり、重ねて尋ねる。
「大丈夫……? 変なもの食べた? 鼠とか……」
「そんなもの食べないわよ! あなたってば、本当に失礼ねっ!!」
一気に頭に血が上ったのか、シェリーはぶわっと銀の被毛を逆立てる。尾の先までたんぽぽの綿毛のようにふかふかに毛が開いた。
つんっとそっぽを向いたシェリーは、そのまま椅子から飛び降りて、キッチンから出て行ってしまった。
頬杖をついて、一連のやり取りを眺めていたセオバルドが、静かに口を開いた。
「……声が少し、鼻声のようだが」
「そう、ですか?」
ちょこっと首を傾げ、眉を寄せたシモンは反らせた喉に片手を添える。息を吸い込み、あー、と声を出し始めてすぐに、ごふっとむせる。
片方の肘で口許を覆い、ごほごほと咳をして涙目になりながら、はぁ……と一息つく。
鼻が詰まっているからか、ぼうっと熱が頭にこもる。頭や顔がぽかぽかと火照るのを、思わず片手で煽ぐ。
「シェリーが言っていたのは、君がいつもよりも大人しいから……。眠いのか?」
セオバルドは、頬杖を付いていない方の手をシモンの前髪の下に滑り込ませて、ぴたりと額に当てた。
「……ん?」
怪訝な顔をしたセオバルドは、シモンの額に当てた手を頬へ、そして耳朶の下から首筋へと滑らせる。
「あの……?」
「熱い。……このまま部屋に戻って、横になっていなさい」
シモンの首筋から手を離したセオバルドは立ち上がり、再び確認するように、もう一方の手でシモンの額に触れる。
「え?」
「熱があるから」
「でも、掃除も食事の支度もまだ……。やることをやってから、早めに休ませてもらってもいいですか?」
動けないほど具合が悪いわけではない。
請け負った家事を気にするシモンに、セオバルドは怖いくらい真顔になる。
「何もしなくていいから、寝ていなさい」
一切の反論を認めない口調で、ぴしゃりといった。
「……すみません」
せめてマグを片付けようと手に持つも、セオバルドにすっと取り上げられる。
「いいから」
窘められたシモンはキッチンを追い出されるようにして、部屋に戻った。
ふわふわする身体を投げ出すようにして、シモンはベッドに倒れ込む。
うつ伏せになりながら、こんなふうに体調を崩すのはいつぶりだろうと、記憶の糸を手繰り寄せる。
最後に熱を出して寝込んだのは、シモンが幼い頃。まだ、祖母が元気な頃だった。
優しかった祖母を懐かしく思い出しながら、シモンは瞼を閉じる。
ひんやりとしたシーツが肌に心地良く、額を埋めると急速に眠たくなった。
もそもそとベッドの上を這ったシモンは、枕に頭を乗せて掛布団を引っ張り上げて被る。
すぅ、と。眠りに落ちた。
――気がつくと、ぽつんと独り。
暗い森の中に、シモンは立っていた。
森に入ってはいけないと祖母に言い付けられていたのに、何で入ってしまったんだろう。
後悔の念が全身を浸し、背徳感が押し寄せる。
早く森から出ようと焦るシモンは、闇雲に歩き始めた。
出口を探して、独りで彷徨う。
(どうしよう……)
帰り道がわからない。帰れない。
音のない暗闇で、背後から何か怖いものの足音がゆっくりと近づいてくる。
……シモンを探して、追いかけてくる。
木の幹の裏に隠れても、茂みに隠れても、どこに隠れてもすぐに足音が聞こえてくる。迷いなく枯葉を踏みしめて、迫ってくる。
そうだ。怖いものは、匂いを辿っているのだ。
怖いものに捕まったら、頭からばりばりと食べられてしまう。
まっすぐに近づいてくる足音に慌てふためいて、どうしたらいいのか考えを巡らせる。
きっと、祖母のそばにいれば、怖いものは近寄れないはず……。
暗い森に視線を巡らせ、シモンは祖母の姿を必死に探した。
ばあちゃん、どこ――?
微かに扉の開く音がした。
シモンは、追いかけて来るものから逃げるように、浮き沈みする意識を捉える。
(起きないと……)
頬から首筋に掌が添えられたような感覚があり、すっと離れる。
薄く目を開けると、見覚えのある部屋の天井が視界に入った。
ゆっくり視線だけ動かすと、レースのカーテンの下ろされた窓の外は薄らと明るい。部屋は仄暗いが蝋燭に灯りを点すほどではない。
朝なのか、夜なのか時間の感覚が無かった。
「……ばあ、ちゃん……?」
まだ目が覚め切らず、身体だけが眠ったように動かない。
祖母を探すために顔を横に傾けると、額から何かが、ずるりと滑り落ちた。
(……布?)
身体が鉛のように重く感じてすぐには動かない。掛布団の中からのろのろと手を伸ばし、シモンは目の前に落ちた布を手に取って、しげしげと眺める。
頭を冷やすために置かれていたのだろうか。濡らされた小さな布は、肌の温度に馴染んで温くなっていた。
手に持つ布の、ずっと向こう。視界に映り込むのは長身の黒髪の男性の後ろ姿。
男性は、机の上に置かれた水桶を前に、布を固く絞っている。
それをじっと見つめるシモンの胸の内に、じわじわと違和感が湧きあがった。
(ばあちゃん、……じゃない?)