冬の始まり 6
セオバルドのコートをしっかりと掴み、俯くシモンは黙々と歩く。
鬼火の灯りに照らされる足許の他には何も見えなかった視界に、小石や枯草、落葉が薄らと浮かび上がった。
夜闇にほのかな陰影を作り出すのは、――月明りだ。
柔く微かな光も、今しがた歩いていた闇一色の森を思えば充分に明るい。
身体に風を受けて、空気が変わっていくのを感じる。
前を歩いていたセオバルドの足が止まった。
「もう、顔を上げて、声も出していい」
穏やかに告げられ、シモンはようやく森を抜けたのだと知る。
ほっとして大きく息を吐きだし胸の空気を一新すると、緊張が解けて身体から力が抜けた。
セオバルドのコートから手を離し、フードを後ろに下げたシモンが辺りを見回した。
天には月が懸かり、淡く透明な光で夜を包み込んでいる。
後ろを振り返ると、そこには月明りの届かない、闇を刳り貫いたように真っ暗な森が広がっていた。
森を振り返ったシモンよりも、一歩。セオバルドが前へ出た。
セオバルドはシモンの前に腕を上げ、これ以上森へ近づかないようにと制する。
そうされたことの意図を掴めず、シモンがセオバルドを見上げるのと同時だった。
すぅっと頬を撫でていく一筋の異質な冷気に、気づく。
シモンは黙ってセオバルドの視線を追い、森を見遣った。
上空を、強い風が吹いた。
木々の梢が揺すられ、乾いた葉がざぁ……っ、と鳴った。
枝を離れた枯葉が宙を舞い、はらはらと地表に積もってゆく。夜空から降りそそぐ月光が、木々の梢をすり抜けて、幾筋もの銀の光芒となり森を照らす。
「あ……っ」
月光に浮かび上がるいくつもの動物の影に、シモンは小さく声を上げた。
森の中を、ゆっくりと移動する鹿の群れがあった。鹿たちに囲われるようにして、ひとりの女性らしい人影が、杖を持ち歩く。
長い髪が風を含み大きく揺れる。風を纏う彼女が進むそばから、木々が葉を散らしてゆく。
女性が杖で地を突くと、やや遅れて足許に、きん……と凍りつくような冷気が届く。
足許に敷き詰められている色付いた木の葉が、冷気を受けて、微細な氷晶で縁取りされた。
霜で白く薄化粧をした冬の大地が、玻璃の如く煌めいた。
「冬の妖精だ」
限りなく声を潜めて囁かれた妖精の名に、シモンは昼間のシェリーの言葉を思い出す。
「……冬の、始まり……?」
ひそひそと訊き返すと、口から零れた息が白い靄となり、氷の結晶となる。か細い銀の月光を鋭い輝きに変えて、きらきらと宙に舞う。
驚いて目を瞬かせるシモンに、セオバルドは「ああ」と頷く。
やがて、鹿の群れを引き連れた冬の妖精が、音もなく遠ざかると――。
まるで氷に閉じ込められたかのように、周辺の空気は冷え切っていた。
一行の消えた方向を見つめ、セオバルドが呟く。
「冬の妖精の持つ杖は、岩も木々も、川の水も……、人ですら凍らせてしまうからね。彼女と森で鉢合わせたりしなくて良かった」
冷え込んだ空気に鼻がくすぐられ、くしゅんとシモンは小さなくしゃみをする。
「長く森にいて身体を冷やしただろう。帰ったらすぐに暖を取るといい」
セオバルドが指先を擦り合わせると、ぱちんっと火花が弾けて飛び、カンテラに炎を点した。
カンテラの中で膨らんで揺れる、暖かみのある朱色の炎にシモンの心が和む。
同時に、中に閉じ込められていた鬼火がいなくなっていることに気づく。
「先生、鬼火はどうしたんですか?」
「森を出る時に放した」
鬼火が還ることで、森との繋がりを絶たれた気がしたシモンは、ほっと胸をなでおろす。
セオバルドの持つカンテラの灯りが教会へ続く細い径を照らす。森でそうしたように、シモンはセオバルドのすぐ後ろをついて歩いた。
「先生、迎えに来てくれてありがとうございます。あの、……森で聞こえた声は何だったんでしょうか?」
「ああ、君を追いかけてきた者。あれは本来森の奥深くに住まう異形の者。人の生肉を好んで食う魔の者オーグルだ。人に紛れる為に化けることもあるが、本来は見上げるほどの大きな体躯をしている。今日、あの森は酷く迷いやすい。あれが言っていたように町で君に目を付けて森へ誘いこみ、喰うつもりだったんだろう」
セオバルドの答えに、シモンは絶句する。
ぱくぱくと酸欠の魚のように口を動かした。
「魔力を持つ人間は、稀だからね。魔の者からするとそういった人間は堪らなくいい香りがするらしい。気付かれると狙われるから気をつけるように」
「ああ、だからいい香りがするって……。追いかけて来ないんですか?」
恐る恐る背後を振り返るシモンは、歩調を速めてセオバルドの隣に並ぶ。
「オーグルは、フードを被った君の顔はもちろん、髪や瞳の色を確認したわけではないからね。さっき渡した布袋で香りもわからなかったはずだ。私を悪魔だと、君を別の子供だと勘違いして取引に失敗したと思っているはずだから、すぐには追って来ないだろう。今ごろ、森へ戻って君を探しているやも知れない。だけど、森のどこにも君がいないとわかったら逃げられたことに気づくだろう。……諦めてくれればいいが、君はあの町にいたところを見られている。魅入られて執着されると厄介だ。用心の為に、さっき渡した布袋は肌身離さず持っているといい。本来は魔除けとして使う物だから」
「はい」
街へ頻繁に買い物に出掛けるシモンは神妙な顔をして、セオバルドに渡された布袋をコートの上から抑える。
これは絶対に落とせない。
「あの、最後に聞こえた声は? 先生の名前を知っていた……」
シモンに問われて、苦い顔をしたセオバルドが口を開く。
「あれは、本物の悪魔だ。心の隙をつき、耳に心地良い言葉を並べて囁き、人を煽り唆す。あれに何を言われても、決して耳を貸してはならない。悪魔の前で、どんな些細な願望も口にしてはならない。願いを口にして契約書にサインをしたら、その願いの対価に魂を持っていかれてしまうからね」
厳しい顔をしたセオバルドは足を止めて、しっかりとシモンと目を合わせる。そして、シモンが一言も聞き漏らさないよう、ゆっくりと諭す。
「あれと、まともに言葉を交わしてはならないよ」
「先生は、悪魔に付き纏われているんですか?」
悪魔の放つ禍々しい気配を思い出し、シモンの身体が震える。
不安に表情を曇らせたシモンから視線を逸らし、手許のカンテラを見つめるセオバルドは、言葉少なく答えた。
「……いや、見たのは久しぶりだ」
教会のすぐ近くにある森が、今夜限りのこととはいえ、鬼火が飛び交い魔物や悪魔も姿を現す異界との境界であったことに、言葉もない。
頭から血の気が引き、呆然とするシモンは、できるだけセオバルドに身体を寄せて、ぴたりとくっついて歩く。
続けざまに森で見聞きしたものが、どれもシモンの日常で起こり得る斜め上を行く出来事だったために、いまいち思考が追い付かない。
とりあえず、そういうものなのだろうと、シモンは一連の出来事を一旦鵜呑みにする。
そして、胸の内で誓いを立てる。
(この森にはもう、入らない)
森をだいぶ離れて、教会が近くに見えた頃だった。
シモンの頭上で、くすり、とセオバルドの笑う声がした。
見上げると、機嫌良さそうに口許に笑みを浮かべたセオバルドと目が合う。その涼やかな青い瞳は少年のように楽しそうで、悪戯っぽくもあり、……何やら怪しげな光を湛えている。
今の今まで怖い思いをしていたシモンは小首を傾げ、不可解な顔をする。
何も楽しいことはなかったのに、どうしたのだろうか、と。
「とても珍しい物が、手に入った」
カンテラをシモンに預けたセオバルドが、左の掌を広げて右手の指先で何か摘まむ仕草をした。摘まんだ物を見せるように、シモンの頭上に指先を翳す。
天に懸かる月と、シモンの目線の間。
夜空に瞬く星彩と同じ、微細な白金の粒子を放つものがあった。
「はい?」
シモンは、じっとセオバルドの指先に目を凝らす。
頭上に掲げられたものは、わずかな月明りを受けてようやく見える儚いもの。
繊細な硝子細工のように透明で美しい、人差し指ほどの長さの小さな翅の形をしたもの。
翅は――。
遠ざかるほどに深い黒の夜空を宵闇の紫に変える。セオバルドが指をわずかに動かすと、燃えるような夕陽の赤へと色彩が変わる。
翅を透かす柔らかな銀の月光を、森林の翠や深い海を思わせる碧に、彩りを変えて見せる。
わずかな光を集め、虹の如く様々な色彩を不可思議に煌めかせている。
まるで翅を通して、現世と異界の次元の狭間を覗き込んでいるような……。
その翅を縁取る白金の粉が、瞬く星屑のように宙に散り、重力に逆らいふわりふわりと空へと浮かび上がってゆく。
白金の光を散らして羽ばたく姿は、さぞかし美しいだろう。
(ん?)
……蝶が?
翅に見惚れていたシモンは、何か引っかかるものを感じて、さっと表情を固まらせた。
思考が停止して、真っ白になる。
驚愕のあまり、はち切れんばかりに目を見開く。
――もしかして。
「それ……?」
さっき投げた……、ように見えた。
まさか。
「妖精の翅だ」
ざぁっと、シモンの顔から音を立てて血の気が引いた。
(ひ、ひぃぃぃぃぃっ!)
心の中で悲鳴を上げ、自分の両頬を両手で挟む。
たった今、今日一番怖い思いをして慄いた。
人肉を喰う魔の者を騙し、物をせしめる人間が、隣にいる。
それよりも、妖精の翅をセオバルドが掠め取ったことを、その魔の者に知られでもしたら。
シモンは弾かれたように振り返り、夜闇に馴染んで見えなくなりつつある森に目を遣る。
「お願いですから、はっ、早くしまって下さい! それ、僕と交換するために魔の者が出したものでしょう!? 手に入ったじゃないでしょう!? 見つかったら僕が連れていかれて食べられちゃうじゃないですか!」
翅を指先で摘まんで翳し、眺めるセオバルドの腕を両手で引っ張り下げ、シモンは必死の形相でまくし立てた。
「この布袋の作り方教えてください! 自分でも作れるように覚えておきます!」
「ああ、もちろん。元々、今日の講義で教えるはずのものだったからね」
笑みを浮かべるセオバルドは、悪びれる様子もなく妖精の翅をしまった。




