冬の風邪 2
「ここは……」
どこだろう。
状況を把握するために、シモンは働かない頭を叩き起こす。
ぼぅっとしていたシモンの脳が、祖母との村での暮らしと死別、その後の出来事を電光石火の如く思い出す。
祖母はもういない。
部屋にいる黒髪の青年は、雇い主であり師匠でもあるセオバルド。
シモンは、今朝セオバルドに熱があることを指摘され、私室に戻って休んだところまで正確に把握する。
だが、どうしてセオバルドが部屋にいるのか。今まで、与えられた私室にセオバルドが入ってきたことは一度たりともない。
かつてない状況に、シモンは困惑する。
「あの、先生……?」
服の袖を捲り、固く絞った布を持ったセオバルドが振り返り、シモンと視線を合わせる。
「目が覚めたのか。さっき少しうなされているようだったが……、ああ、身体を起こさなくていい」
上半身を少し起こそうとするシモンに、セオバルドは声を掛けた。
ちらりと視界に映り込んだ机上には、綺麗に畳まれたシモンの替えの服と、乾いた布。水桶に水差しとコップ。一度に運ぶには量の多い物。
ひと目で、寝込んだシモンの為に、セオバルドが世話を焼いてくれたのだとわかった。
眠っていて気づかなかったが、もしかしたら様子を見るために、何度も部屋へ足を運んでくれたのかもしれない。ベッドに再び体を横たえながら、シモンはセオバルドの手を煩わせてしまったことを申し訳なく思い、恐縮する。
「すみません。まだ身体が重くて……、横に」
横になったままで失礼しますと言いかけて、ふと気づく。
頭痛そっちのけで、目がぱちっと開く。
何度も。
様子を、見に……?
ほとんど無意識に、シモンは、さっと部屋の中に目を走らせる。
雇用人兼教え子の身分であるシモンは、いつも部屋は片付けてある。だが、何か見られたら困る物はなかっただろうかと眠る前の部屋を思い出し、現実に見えている物と照らし合わせる。
「声を掛けたが返事が無かったから、様子を見に部屋へと入ったんだ。ぐったりとして、ずいぶんと汗をかいていたようだったから、今汗を拭いて、せめて上の服だけでも着替えさせようかと……」
着替えをさせる。シモンはその言葉の意味を、咀嚼する。
誰が、誰を……?
ゆっくりと一秒、二秒、三秒――。
うまく働かない頭にじわじわと染み込む言葉。
怒涛の如く押し寄せる、危機感。
それは。
(まずい、まずい、まずいーっ!!)
全身を緊張が走り、嫌な汗が吹き出す。
これ以上ないくらい目を大きく見開いて、シモンは深く息を吸い込む。一気に吸い込んだ空気が乾いた喉に障る。喉が奥からちりちりと痛み、身体を横向きにしてくの字に曲げると、ごほごほと咳き込んだ。
「……大丈夫か?」
急に激しく咳き込み始めたシモンに、セオバルドは心配そうな眼差しを寄こした。
シモンは咳き込みながら、セオバルドの声にこくこくと頷いて応え、涙目で掛布団をがっちり掴んで、ずりずりと鼻先まで引っ張り上げる。
「ありがとうございます。でも、もう目も覚めたし、……それに今、少し寒いので、後で! けほっ、……またっ、後で全、ぶ……っ、自分の事は自分でする、ぅ……っ!」
興奮して大きな声を出してしまい、更にげほげほとむせる。
息を吸い込んだそばから咳き込み、顔を真っ赤にさせたシモンは、ひとしきり咳をして少し落ち着くと、掠れて割れた鼻声で続けた。
「……自分の事は自分でするって、約束でしたから。それより、先生にうつしたら申し訳ないので、すぐに! 部屋から出てください」
続けざまに出る咳に、セオバルドに部屋から退出するようにお願いする。部屋に長居させて、セオバルドにうつすわけにはいかない。
そこに嘘はない。
だが、セオバルドに服を脱がされるわけにも、もちろんいかない。
鼻先まで引っ張り上げた掛布団を片手でしっかりと押さえたシモンは、横向きのまま、もう片方の手でしっとりと汗を吸った上下の服にさっと触れる。
眠りについた時のままであるか、身体を見られてはいないか手探りで確認する為に。
シモンは衣服の上から触れた手に伝わる、ばくばくと激しく脈打つ自分の鼓動を感じる。
服も乱れた所はないし、胸に巻いた薄布も、朝シェリーに起こされた後に締めた時のまま、緩んでいない。
脱がされる前に、目を覚まして本当に良かった。
シモンは心を落ち着かせる為に、自分に言い聞かせる。頭の中で繰り返す。
――大丈夫、大丈夫だ。ばれていない。
「寒い?」
シモンの言葉に、セオバルドは眉を寄せて表情を曇らせる。
手に絞った形のままの布を持ち、セオバルドがベッドの脇で腰を屈めた。シモンの額に掛かる長い前髪を指で梳いて後ろに流すと、あらわになった額に手を当てしばらく置く。
(冷たい……)
額を覆うセオバルドの大きな手は、水桶に入れていたからか。しっとりと濡れて冷たく、心地良い。
とろん、と目を細めたシモンは、小さな吐息を洩らした。
「まだ少し熱いか。また上がるのかもしれない。今、体を拭いて着替えてしまいなさい。汗を吸った服はきれいにしておくから」
(えっ? は!?)
セオバルドの言葉に耳を疑い、シモンは忙しく目を瞬かせる。
余計なことを言って、自分の首を絞めたことに気づいた。
「着替えたら水を飲んで、その後また眠ればいい」
さっさと済ませてしまおうと思ったのか。
セオバルドが身を屈めた姿勢のまま、片手をベッドにつき、もう片方の手をシモンの首の下へと滑り込ませ、肩を支え起こそうとする。
身体を起こしたら、次は着替えるよう促されるだろう。
もしも服をまくられでもしたら……。
想像して、シモンはひやりとする。
(だっ、断固拒否!)
着替え不可の姿勢でいなければならない。
すごい勢いで頭を滑らせ、セオバルドの腕から逃れたシモンは、海老のように身体を折ってベッドの隅へと逃げる。そして、掛布団を口許でしっかりと掴み、小さく丸めた身体を固くする。
呆気にとられ目を丸くするセオバルドを、シモンは強い意思を込めた眼差しで見上げた。
「着替えは後でしますから……! 洗濯も、熱が下がったら自分で出来るから大丈夫です……っ! こほ……っ、けほけほっ」
絶対にセオバルドの前で肌を露出するわけにはいかないシモンは、声に力を込めてきっぱりと言い切る。
「濡れたままの服を着ていたら、また体を冷やすだろう」
掛布団を被って咳き込み、服の袖で涙を拭うシモンを見下ろすセオバルドが、子供に言い聞かせる口調で諭す。
セオバルドにとってシモンは同性の、未成年の少年だ。彼が純粋な厚意で世話をしてくれるのだと、シモンにはわかっている。
けれども。
シモンの事情が、セオバルドの厚意に甘えることを許さない。
「布団に包まっているので、大丈夫ですからっ!」
申し訳ないと思いつつ、全力で突っぱねる。
むっとセオバルドが顔をしかめた。
「変な意地を張らないで……」
「それに……っ」
静かだが叱りつける口調になったセオバルドに、慌てたシモンは礼を欠くことを承知で話を遮る。
セオバルドに、困り切った哀願の眼差しを向けるシモンは、口許に掛かる布団を離すまいとして、きゅっと握りしめる。
雇い主であるセオバルドの厚意を蔑ろにして怒らせ、その後気まずくなれば、ここに居づらくなってしまう。
怒らせてしまう前に、何か他の円満に納得してもらえる理由を――。
「優しくしてもらえるのはとても嬉しいんですがっ、その……! 先生の前で、ふっ……、服を脱ぐとか、肌を見られるのとか……っ!」
なりふり構っていられなかった。
ただでさえ熱っぽく働かない頭で、弁明どころではない。
身体を見られなければ、女だとばれなければ、この際何でもいい。
「僕が、はっ、恥ずかしいんです……」
口を衝いて出た言葉に迷いもあって、ふにゃっとした力の入らない声で、だが精一杯真摯に訴える。
恥ずかしいと言葉にすると尚恥ずかしく、かぁっと顔が火照り熱くなるのを感じる。
セオバルドが一瞬、大きく目を見開いて動きを止めた。
そのまま動かずに何も言わない。そんなセオバルドの微妙な反応に焦るシモンの頭の中は、一気に感情や思考が混乱し、ごちゃごちゃと絡まり渦を巻く。
(何? 何か間違えた? 変なこと言った? 肌を見られるのは恥ずかしいで、合ってる!? 男同士で自意識過剰だと思われてる? あっ、もしかしてすごく怒っているとか……!?)
機嫌を損なったのか、怒らせてしまったのか。セオバルドの表情からは読み取れない。
(お願いだから、怒らないでください……っ!)
そして、我儘を許して欲しい。
――わずかな間、目を合わせたまま静止するふたりの間を、沈黙が流れた。
当惑気味のセオバルドが、何か言いたげに片手を上げて、シモンの方にそろそろと腕を伸ばす。
伸ばされたセオバルドの腕が、掛布団を剥がそうとしているかに思えて、ぴくんと反応したシモンは、ぎゅうっと掛布団を胸許に掻き抱いた。
「ぅぅ……」
耳朶まで赤くなったシモンは、潤んだ淡い翠の瞳に怯えを滲ませ、祈り、許しを請うようにまっすぐにセオバルドを見つめる。
わずかにたじろいだセオバルドは「いや、熱を」と呟いて、ぎこちなくシモンから目を逸らし、伸ばしていた手を下ろした。
「……そうか」
セオバルドは気まずそうに机の前にあった椅子を、ベッドの脇に運んで置く。
続いて、トレイに水の入った水差しとコップ、小さなポットと硝子瓶を乗せて、椅子の上へと置いた。
「エルダーフラワーコーディアルだ。お湯の入ったポットを置いておくから割って飲むように。……明日の朝には、また様子を見に来るから。身体が良くなるまでは、部屋で安静にしているように」
「……はい、ありがとうございます」
素直に頷いたシモンに、ほっと吐息を洩らしたセオバルドは、ベッドから離れて扉へと歩く。
安堵から表情を和らげたシモンは、セオバルドの背に「あのっ」と声を投げる。
「すみません。……色々とありがとうございます」
柔らかな声音で重ねられた礼に、セオバルドが扉の前で振り返った。
頑なだった態度を極端に軟化させたシモンの様子に、セオバルドは、いまいちよくわからないといった顔をして小首を傾げる。
また何か変なことを言っただろうかと、微妙に顔を強張らせたシモンは、どぎまぎしながら挨拶をする。
「え、……と。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
部屋からセオバルドが出て、扉が完全に閉まる音を聞いたシモンは、枕に顔を埋める。
「……ぅわあぁぁ」
大きな溜め息をついて、ぐったりと脱力した。




