冬の始まり 5
平衡感覚すら狂ってしまいそうな、深淵を思わせる暗い森の中。
深くフードを被り、俯いて歩くシモンの視界は狭い。カンテラに閉じ込められた鬼火の、青白い灯りが照らすセオバルドの足許しか見えない。
時折、近くを飛んでいるのであろう、鬼火のほのかな青白い光とすれ違う。
森を歩き始めてからしばらく……、否。
もう大分経つが、セオバルドが足を止める気配はない。
――本当に。
本当に、こんな奥まで一人で入り込んだのだろうか。
この暗闇は、本当に森の作りだしたものなのか。
セオバルドの説明を受けた時には半信半疑であった異界という言葉が、急に現実味を帯びた。
もしも、セオバルドのコートを掴む手を離してしまったら……。
闇に閉ざされた森に、たった独りで取り残される自分を想像し、ぞっとしたシモンはセオバルドのコートをしっかりと掴み直す。
風も吹かず、わずかな葉擦れの音もない。
生き物の声も、動く気配もない。
ただ、耳の痛くなる程の静寂が、頭上から降り注ぐ。
底知れぬ森の深淵を、セオバルドの足許だけを見つめて、落ち葉や枯れ木を踏みしめて歩く。
耳に届くのは、踏みしめられた落ち葉や枯れ木が囁くような微かな音――。
「おい、待て。そこの」
シモンの頭のすぐ後ろ……、耳許で低く囁く声がした。
あの男の声だ。
心臓が跳ね上がるほど驚き、すんでのところで悲鳴を噛み殺したシモンは、思わず首を竦ませ、足を止めそうになる。
けれどセオバルドは、まるで声が聞こえていないかのように平然として、振り向くことも、足を止めることもしない。
セオバルドのコートを掴んだ手が引っ張られ、シモンも、歩みを止めることなく前へ進む。
「同志か? それとも異界の悪魔か?」
少し大きな声が、シモンの頭上を飛び越える。おそらくセオバルドに話し掛けているのだろう。
「…………」
「カンテラに鬼火を灯すような奴は悪魔だな? ……連れているのは、町の子供か?」
肯定も否定もせず、しばらくの間黙っていたセオバルドが、重々しい口調で返事をした。
「……これは私が捕まえた。所有権は、私にある」
男の低い声は、シモンのすぐ後ろを離れずについてくる。
「亜麻の髪と翠の瞳の子供か?」
「金の髪と碧い瞳を持つ、物言わぬ死者だ」
男の声に動揺することなく、即座にそう答えたセオバルドは、歩調を変えずに歩き続ける。
髪や瞳の色までしっかりと覚えられていたことに、シモンの顔が強張った。
心細くなり、セオバルドのコートを掴む手に、ぎゅうっと力が入る。
不意に、男の足音が大きくなった。男に踏みしめられた枝の折れる音が鋭くなる。
木々の梢が男の身体に当たるのか、後方や頭上で枝がばきばき、めきめきと音を立てる。太い枝を力任せに払う音がする。
「嘘を吐いているだろう!」
獣の咆哮を思わせる男の威圧的な声が、びりびりと空気を震わせる。
頭上から降りそそぐ怒声に気を呑まれ、シモンの全身が総毛だった。
「まさか、嘘などつくものか」
飄々として返すセオバルドに、男は、しばし黙った。やがて、訝しむように小さく唸る。
「……連れている者のフードを取って、顔を見せてみろ。亜麻の髪と翠の瞳の魔力を持つ子供であれば、先に見つけて森へ誘いこんだのは俺だ」
ぎょっとして目を瞠るシモンは、空いた手でコートの襟元を合わせると、ぐっとフードを下に引っ張る。
心臓が早鐘を打ち、瞬時に、口の中がからからに干上がった。
「いいや、その手には乗らない。髪を見せれば、お前はこれの金の髪を亜麻だと言うだろう」
セオバルドにのらりくらりと躱された男は、図星であったのか、ぐぅ……と喉を鳴らす。
「……それなら見せなくてもいい。だが、私はこの子供が欲しい。子供の肉は甘く柔らかく舌の上でとろける。それに魔力持ちは香りが良くて殊更旨い。死んだばかりなら、まだ味も落ちてはいないだろう。連れている子供を譲ってくれるのなら、とっておきの物をやろう」
「ほう、この者と引き換えに、何をくれる?」
興味を持ったようにセオバルドの声の調子が上がった。
男の提示する物によっては、自分を譲り渡してしまいそうなセオバルドの言葉に、シモンは叫び出しそうになるのをなんとか堪える。
(せ、先生!?)
戸惑いや焦りが胸の内で渦を巻き、シモンは無理矢理息を呑む。
セオバルドのコートを掴む手の中に、嫌な汗が滲んだ。
「お前たち悪魔の住まう、瘴気に満ちた異界では珍しいだろう。悪魔の持ちえない神秘の力を秘めた妖精の翅を」
「…………」
考えを巡らせているのか、セオバルドは、すぐには応えない。
ややあって、くすりと笑い声を漏らしたセオバルドは、そわそわとして落ち着かない男を更に焦らすかのように、ゆったりと口を開く。
「だめだ、それは嘘だ。きっと冬を迎えて地に落ちた蝶の翅だろう」
「いいや、本物だ! 見てみるがいい」
シモンの後ろから、丸太のように大きく太い腕がにゅっと伸び、爪の先で摘まんだ『何か』をセオバルドの横に差し出す。
受け取って手許に引き寄せたそれを見るや否や、セオバルドが腕を振り、手に持っていた物を無造作に暗闇の中へと投げ捨てた。
ついて来ていた男の足音が、セオバルドの行為に驚いたように一瞬止まる。
後ろを振り返ることなく歩みを止めないまま、セオバルドは鼻で笑った。
「いや、やはりただの蝶の翅だった。そんな物で騙そうとするとは、馬鹿にされたものだ」
あざ笑うかのようなセオバルドの声に、ごりごりと頭上で激しく歯ぎしりをする音がする。大きな岩を擦り合わせるのにも似た嫌な音。
子供の細い身体が挟まりでもしたら、一瞬で磨り潰されてしまいそうな音だった。
「話にならない。この者はやれない」
セオバルドは、きっぱりとそう言い捨てる。
男の悔しそうに低く唸る声と歯ぎしりが、シモンのすぐ耳許で聞こえた。
噛みつかれやしないかと、シモンは息を潜めて首を竦ませて歩く。
「悪魔でなければ、その頭を捻り千切ってやるものを……! くそっ! くそ!!」
背中に浴びせられる激昂した男の声が、少しずつ遠ざかっていく。
緊張を残しつつも、遠ざかる男の声に安堵したシモンの肩から、ほっと力が抜けた。――刹那。
空気が、変わった。
別世界に迷い込んだかと思うほどに、重く毒々しい空気。よどんで肌に絡みつくそれに、息苦しさを覚える。
その空気を作り出している『何か』が、そこにあった。
およそこの世界のものとは思えない禍々しい気配を感じて、シモンは呼吸を浅くする。大きく脈打つ心臓の鼓動が喉許にまで響く。
前を歩くセオバルドが、微かに身を硬くするのがわかった。
「久しいね、セオバルド」
前方からセオバルドに掛けられた、若い男の穏やかな声。
まるで旧知の仲であるかのように親しげな言葉。
先程シモンを追いかけてきた男とは違う、別の男の声だった。
フードを目深く被り、俯くシモンから声の主の姿は見えない。
『何か』に名を呼ばれても、セオバルドは取り合わずに歩き続ける。
「闇夜に針の穴を通すなんてものじゃない。石ころの山の中から、形の知れない石ころを見つけるように酷く難解で、気の遠くなる緻密な作業だったろうに、成し遂げるとはね」
セオバルドのコートに引かれるままに、男の声の真横を通り過ぎようとした時。
得体の知れない寒気が身体を這い、ぞわりとしてシモンの肌が粟立つ。
セオバルドに話し掛けていながら、男の関心と視線が自分に向いていることを感じて、シモンの全身から嫌な汗がぷつぷつと噴きだす。
「私はただの傍観者だ。だが、必要とあらば、いつでも喚んでくれて構わない。歓迎するよ。セオバルド」




