幕間 ~気鬱~
寂れた教会の、住居部分の二階。
木々の梢を擦り抜けてきた涼しい風が、開け放たれた窓から屋内に入り込み、長い廊下をゆるやかに流れてゆく。
穏やかで爽やかな、風の通り道。
柔らかな朝の陽光が差し込み、陽が高くなる頃には影になる、心地の良い場所。
そんな窓辺で。
四肢を伸ばし、横たえた身体をとろけるように薄くして、銀色の妖精猫はうとうとと微睡む。
そよぐ風に撫でられて、滑らかなビロードを思わせる銀の耳が、ぴく、ぴくんと忙しく動いた。
「シェリー、気持ち良さそうだね」
風に乗る軽やかな少女の声に、シェリーの意識が唐突に引き戻された。
耳が動いたからか、それとも窓の外に顔を向けていたからか。シルヴィは、シェリーが眠っていることに気づかなかったようだ。
シェリーは小さな溜め息を漏らして、薄らと瞼を持ち上げる。首だけを巡らせ、背後に立つ男装した少女の淡い翠の瞳を、じとっと見つめた。
「シルヴィ、昼寝の邪魔をしないで」
素っ気なく呟いて、シェリーは四肢を突っ張り、軽く伸びをする。
起こしてしまったことに気づいて、シルヴィは、大きな瞳をぱちりと瞬かせた。
「ごめんね、シェリー」
――この町を出るまで、あと数日。
シルヴィは、家主のセオバルドに女性であることを告げた後も、町を出るまでは男装をし続けることに決めた。
じきに旅立つのなら、町の人たちを驚かせ、波風を立てることはしたくないらしい。
それに、掃除をする時や買い物に行く時など、男装の方が動きやすいのだとも言っていた――。
そよそよと外から涼しい風が流れ込んで、シルヴィの長く伸びた亜麻色の前髪が、ふわりと宙を泳ぐ。
緩く癖のある髪を指に絡めて抑え、シルヴィは気持ちよさそうに目を細めて微笑する。
「ここも、風の通る居心地の良い場所だね」
伸び伸びとして朗らかなシルヴィの声に、シェリーは大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
シェリーに対するシルヴィの態度は、『シモン』であった時と何ら変わりはない。
むしろ、女性であることを隠さずにいられるようになったことで、気を張る必要がなくなったのか。シルヴィの纏う雰囲気は、心なしかしとやかに、態度はやわらかになった。
シェリーは面白くない顔をして、ふい、とシルヴィから顔を背ける。
(この子ってば、本当に……)
軽く目を瞑って、物思いに耽る。
シルヴィは――。
シェリーが、教会に転がり込んだ時点で『シモン』の性別が女性であることを見抜いていながら、その立場を慮り、黙っていたのだと信じている。
大事な同志であり、友達だとも言っていた。
一方。
シルヴィに対して、冷淡な態度で接してきたシェリーを間近で見てきたセオバルドが、彼女の言うことを真に受けるとは思えない。
あの時、セオバルドが黙って赦したのは、きっと。
シルヴィの信じるものを否定し、シェリーを追い出せば、彼女が悲しむだろうと考えたから……。
だからこそセオバルドは、シェリーにしっかりと釘を刺した。
ふたりの言動を思い返すシェリーの胸が、ちくり、と痛みを覚える。
(……馬鹿な子)
以来、シェリーの胸の内では、シルヴィに対して複雑な想いが渦を巻いていた。
清々しいまでの信頼と、純粋な好意を寄せられていることは、わかっている。シルヴィのことも嫌いではない。
けれども、シルヴィを受け入れてしまったら、シェリーの胸の奥底にしまってある大切な思い出が霞み、淡雪のように溶けて消えてしまいそうで、それもできない。
……経験を通して学び、知り得たものは、自己により認識され知識として残る。
だが、目に映して記憶したものは、時間の経過と共に印象に残る場面を繰り返すのみとなり、遠い過去のものともなれば、色彩を失った絵のように動くことすらない。
耳で聞いた声は、どんなに大事に心に留めておいても、やがて薄らいでゆく。……音を失い、言葉を残すのみとなる。
ところどころ欠け落ち、色褪せてしまった記憶を無理に引き出せば、わずかに色濃く残した部分ですら、シルヴィに塗り替えられてしまいそうで、懐かしむことすらままならない。
故にシェリーは、シルヴィのことを素直に受け入れることができずに、自分自身の気持ちを整理することもできなかった。
そんなシェリーの態度はシルヴィを拒絶するが如く、以前よりも輪をかけて素っ気ないものとなっていた。
再び、シェリーは陽だまりの窓辺で、目を瞑る。
どこからともなく、風の運んできた甘やかな香りが鼻孔をくすぐった。
風向きと、香りに混じるセオバルドの部屋の匂いから、それが魔法使いである彼の焚く香であると、容易に想像がつく。
大きく息を吸い込むと、嗅ぎ覚えのあるいくつかの香草や香木が、複雑に絡んだものであると判る。
しかし、この配合の織り成す香りを、シェリーは知らない。
鼻孔から入り込む香りが身体中を巡り、頭の芯が、ぼぅっとする。
耳を掠めてゆく風に潜むのは、セオバルドが呪文を唱える微かな声。
声を捉えると、たちまち眠気に襲われる。次第に感覚が遠のいて、意識は、深い深い闇の底へと沈んでゆく。
眠りに落ちる、直前。
記憶の奥底に大切にしまっておいた懐かしい眼差しと、シルヴィの淡い翠の双眸が重なった。
目を覚ますと、シェリーは白い靄にすっぽりと包まれていた。
見渡すも、上も下もただ一面の白。
シェリーは、煙の如く漂う濃淡のない白霧の中に独り、ぽつんと座っていた。
(ここは……?)
当惑気味に、シェリーは小首を傾げる。
声を出そうとして、口を開く――。
「……」
しかし咽からは、空気の滑る音も出ない。
前足を上げて、首に結わえられた銀の鈴を揺らしてみるが、こちらも音が鳴らない。
足許に、地面のようなものはない。
けれど、足を着いている感覚はあった。
シェリーは立ち上がり、そろりと一歩踏み出してみる。
(……歩ける)
状況がまったく理解できないまま、シェリーは歩を進めた。
白霧の切れ目か。
白い靄が薄くなり、その向こう側に濃い暗がりと、細い明りが見える。
そして、男性の囁く低い声が聞こえた。
「……めばいい」
言葉をはっきりと認識した途端、さぁっと霧が晴れて。
シェリーは、どこか暗い場所に立っていた。
(どこかの家、かしら)
空気の流れのない、閉ざされた屋内の、暗くて狭い廊下。
ほんのわずかに開いた扉から、細々とした明かりが零れて、廊下に一筋の光を落としている。
廊下に佇む小さな男の子が、扉の隙間から部屋の中の様子を窺っている。
先程の男性の声は、扉の向こう側から聞こえたものらしい。
男の子の足許からシェリーが部屋を覗き込むと、そこはキッチンだろうか。
テーブルに着いた若い女性が、両手で顔を覆いしゃくり上げている。そばには、彼女の背に手を当てて顔を覗き込み、宥める若い男性がいた。
上ずった女性の声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「でも、……あの子を、手放すなんて」
「見ただろう! 一生贅沢をして有り余るだけの金が手に入るんだ……! 数日先の食事の心配だってしなくてよくなる。ここを出て、新しい暮らしだって始められる……!」
早口で捲し立てる男性の声は、潜められてこそいたが、焦燥が滲んで、語気も荒い。
返事をしない女性に、男性は必死に説得を重ねる。
「次の子を産めば、君もあの子のことをすぐに忘れるさ。何も捨てるわけじゃない! セオバルドだって幸せに……」
よく知る名を耳にして、シェリーは額に皺を寄せて、訝しむ。
(セオバルド……?)
シェリーの頭上で、同じように部屋を覗いていた男の子が、両手で自分の両耳を押さえて塞いだ。
その瞬間、部屋から漏れ聞こえていた声が、ぴたりと聞こえなくなる。
男の子が、そろりと後退った。
身を翻して廊下を進み、別の部屋に入った男の子は、静かに扉を閉める。ベッドの脇にもたれ掛かり、膝を立てて床に座り込んだ。
シェリーは、男の子の正面に回り込んで腰を下ろす。
歳は、五つかそこらだろうか。呆然とする幼い男の子の髪の色は黒、虚空を映す瞳は青。
男の子の面差しに、自分の知るセオバルドの面影を重ねたシェリーは、半信半疑で声をかける。
「セオ?」
シェリーの姿が見えていないのか。男の子に反応はなく、視線も合わない。
唐突に、男の子が薄く口を開いた。
「あ、……あー。あー」
両手で両耳を塞いだまま、淡々と無感情な声を吐き出す。
まるで、壊れてしまったかのように。
ぎょっとしたシェリーは、男の子に一歩近寄った。
「ちょっと……!」
視線を交わし、自分の存在を認識させようと差し出した指先が、男の子の膝に触れた途端。
シェリーの身体は軽い気体のように、すぅっと男の子に吸い寄せられた。
――瞬時にして、男の子を映していた視界が切り替わる。
窓辺に、ほの明るい透明な月光が滲む。
何もない、暗い部屋の壁とそして、床が見えた。
「あー。あー。あー」
直接頭に響く、単調な幼い声。
シェリーのものではない、別の誰かの感情が流れ込んでくる。
強い拒絶を根底に、動揺や焦りの感情が嵐のように渦を巻く。息苦しさを覚えるほどの深い悲しみに、シェリーの胸が締め付けられる。
これは男の子の意識だと、シェリーは理解する。
たった今聞こえた会話を、男の子は頭の中で何度も再生しながら、自分自身の声を重ねて塗り替えていた。
ふたりの声が、聞こえなくなるまで。
「あー。あー」
……何度も。
「あー……」
あたまのなかが、こえでいっぱいになる。
(きこえなかった)
「あー、あー。あー」
おかあさんはないていた。
おとうさんはなぐさめていた。
だから、なにもきこえなかった。
きこえなかった。
なにも……。




