魔法使いの弟子
座学を教示していた師が、部屋を出た直後のことだった。
「だめだーっ! 師匠が何言ってんのかちっともわかんねぇ!」
諦めの混じる苛立った喚き声が、セオバルドのすぐ隣に座る少年から発せられた。
鮮やかな赤髪を両手でわしゃわしゃと掻き乱した少年は、長机の上に広げられたノートから目を背け、天井に向かって大きく溜め息を吐いた。
少年の手許にあるノートに意味のある文字が連なっているのは、座学の授業の前半部分のみ。
文字は徐々に乱れていき、次第に薄く、文字の形を成さない波打った線となる。
完全な白となった部分を、セオバルドは冷ややかな眼差しで眺め下ろした。
「ユアン、師匠に聞こえる」
気の緩んだユアンに、注意を促す。
師に睨まれるのは、彼も本意ではないはずだから。
そして。
「……途中で眠っていたら、わかるはずがない」
至極当然といった口調で、セオバルドはもう一言付け加える。
「あぁ?」
不貞腐れたユアンが、投げやりに返事をする。
セオバルドに向けられたユアンの不機嫌な顔は、視線を結ぶと、途端に真剣に表情を改めた。
「ノート、見せて下さい」
う……っ、と口を引き結んだセオバルドは、渋い表情を浮かべる。
寝るな、起きていろ。
そんな言葉は言い尽くした。
それでも一言添えるべきだろうかと、わずかな間、逡巡する。
溜め息を零し、諦念の境地で沈黙を選んだセオバルドは、開いていた自分のノートを隣に滑らせる。
「サーンキュ! 助かる。師匠の話し方って、ぽそぽそ終わりのない呪文の詠唱みたいっていうか。ながぁ~く話を聞いてると眠くなるんだよ」
セオバルドのノートに視線を移したユアンは、そそくさとペンを走らせ複写を始めた。
静かになったかと思うと、ぴたりと手の動きが止まる。
「あれっ? ……ん~。この部分、お前はわかったか? セオバルド」
机上の物を片付けていたセオバルドは、ユアンの指し示す箇所を一瞥し、彼にわかる程度に小さく頷く。
お、と口を開いたユアンが、即座に表情を明るくした。
「さすが師匠の跡目候補! いつもわりぃ。俺にもわかるように教えてくれよ」
教えてくれ、とユアンは言うが。
ユアンは理解ができないわけではない。大概がノートを見れば事足りた。
わからないという箇所も、セオバルドが彼の頭の中で整理できていない部分を少しほぐすようにして教えると、すぐに理解が追い付いてくる。
それに、問題一つとっても多角的な見方をするユアンは、時折説明するセオバルドの方が、はっとするような気づきをくれることもある。
苦手なのは座学だけ。実技を伴う講義や実戦訓練に関しては生き生きとして優秀であり、教えてくれなどと乞われたことなどない。
そんなユアンは、師の教えを受ける者の中でも、成績は常に上位だ。
「……わかった」
ユアンとは歳が同じだったからか、それとも師の門下に入った時期が近かったからか。
最初にユアンの隣に座るよう師に指示された時から、頻繁に声を掛けられるようになり、行動を共にすることが多くなった。物怖じしない性格の彼は、人懐っこく要領もいい。時に、思ったことをそのまま口に出し、周囲の人間の反感を買うこともあったが、裏表のない素直なユアンの人柄をセオバルドは嫌いではなかった。
大きく広い部屋は教室とされ、二、三人で並んで座れる長机にベンチがいくつも置かれている。
そこでユアンとセオバルド、他の少年たちは魔法使いである師から教示を受けていた。
ユアンを含め、生家から師の館へ通う者はごくわずかであり、教室にいる者の大半は、セオバルドと同じように師の館に住み込む形で共同生活をしている。
弟子たちの年齢は様々だが、皆十代半ばまでの少年であった。ユアンとセオバルドは、その中でも最年少である。
セオバルドと話すユアンの声が聞こえたのか。
あちらこちらで小さな集団を作り、雑談をしていた相弟子たちが、ちらちらと窺う視線を投げかけてきた。
耳に届く、ひそひそと囁かれる相弟子たちの声。
それを、いつもの通り、気づかない振りをして聞き流す――。
「お前、さっきのところわかった?」
「いや……」
「後でカーターに訊いてみよう。俺、セオバルドに訊くのだけは嫌だ」
「俺も」
「セオバルドの奴、あいつだけ私室を与えられたのって、空いた時間に師匠から特別に教えを受けているんじゃないのか?」
「いいよなー、あいつだけ師匠に引き取られたんだ。特別扱いだよな」
「ばぁか。あいつ、師匠に能力を見込まれて高値で買われたんだぜ? 引き取られはしたが養子としてじゃない。親に売られて、これで出来が悪かったら、みっともなくて師匠の所にも居られないっつーの。私室で寝る間も惜しんで机にかじりついているに決まってるさ」
「価値が無くなったらあっさり捨てられるかもな」
「親もさ、普通息子を売るかー? うちの親でも流石に売らないね」
次第に興奮してきたのか、潜められていた声が大きくなり、嘲笑が重なる。
繰り返される同じような噂話に、よくも飽きないものだと感心すら覚え、セオバルドは頬杖をついた。
多くいる弟子の中から、師の跡を継ぐ者として選ばれるのは、たったひとり。
だから、相弟子たちは共に学ぶ仲間であり、同時にライバルでもある。
師が見つけ、親許から引き取り、連れ帰った唯一の弟子。そんな稀有な境遇の持ち主であるセオバルドには、陰口にも似た噂話が常に付きまとう。年上の相弟子たちが兄貴風を吹かせて揶揄うなども、日常茶飯事だった。
ちっ、とユアンの鋭い舌打ちが部屋に響く。
話に夢中になっていた相弟子たちが、はっとして口をつぐむ。
ざわついていた教室が、不意に静まり返った。
静寂の中。
ピロロロロ……、と屋外から聞こえる、駒鳥の高い囀り声。
空を飛ぶ鳥の影が窓硝子に落ちて、さぁっと奔り抜けて行く。
頬杖をついて、それを見つめたセオバルドは、感情のこもらない冷めた声音で呟いた。
「……放っておけばいいだろう」
鳥の囀りと変わらないのだから。
「文句の一つでも言えよ」
言い返さないから言われっぱなしなんだ、と。
面白くなさそうなユアンは、音にならない程の小さな声で呟く。
自分のことでもないのに苛ついた様子のユアンを、セオバルドは目を細めて一瞥する。
「鳥の囀りに文句を言うほど、無駄なものはない」
どうせ鳴き止まないのだから。
顰めていた顔をきょとんとさせて、ユアンがセオバルドを見つめた。
明るい琥珀色の瞳が、くりっとする。
「その通りだ」
ユアンは頬を緩めて、ぷっと吹き出した。




