廃教会の魔法使い 4
「僕が先生に、言いそびれた……こと?」
過去に遡り、セオバルドと会った時からずっと、シモンが言いそびれていること。
思い当たるものは、ひとつしかない。
「……!」
はっとして、シモンの顔が強張る。
セオバルドはゆったりと一呼吸置いて、シモンの瞳をじっと覗き込んだ。
「私の勘違いかもしれない。……たとえ、君に言いそびれたことがあったとしても、別に言えと強制するわけじゃない。何か理由があって、君がこのままが良いというのなら、言わなくても構わないよ。私は、君が君であれば、それでいいのだから」
シモンの双眸が、これ以上ないくらい大きく見開かれた。
曖昧に濁してはいたが、しかしセオバルドは、シモンの隠していることを知っているような口振りだった。
突如、訊く側から訊かれる側に回ったシモンの頭から、さぁっと音を立てて血の気が引く。身体が温度を失い、指先まで冷たく凍り付く。
心の奥底まで見透かすような青い瞳から、目を逸らせなくなる。
(知ってる? まさか、そんなはず……)
セオバルドの前で肌を出したことも、口を滑らせた覚えもない。
しらばっくれるのであれば、何のことだかわからないと言ってしまえばいい。
けれど――。
「……」
動揺のあまり、シモンは平静を装うことができない。
質問に対して素直に反応したシモンに、セオバルドは微かに口の端をあげた。
シモンが何かを隠していることは、しっかりとセオバルドに伝わってしまった。
力の抜けたシモンの指先が、痺れたかのように感覚を失い、震える。
止めることのできない震えを隠すために、シモンは両手でカップを包み込んだ。磁器の無機質な冷たさが、ひやり、と掌から背筋にまで伝う。
カップに湛えられた琥珀色の水に、細かな漣が立った。
沈黙が容赦なく部屋に降り注ぎ、澱のように溜まっていく。
徐々に密度の高くなるそれに、シモンは息苦しさを覚える。
(何か、言わないと……、でも)
今更どんな言葉で否定しても、白々しく聞こえるだろう。
きちんと事実を告げて、今まで性別や名前を偽っていたことを謝罪しなければならない。
しかし。
万が一、セオバルドの示唆するものがシモンの隠しているものと違ったら、自分から秘密を暴露することになる。
……軽蔑の眼差しを向けられるかもしれない。
動揺は徐々に焦りに変わり、口を薄く開いてみるものの、シモンは決心がつかない。
途方に暮れて、シモンはちらりとセオバルドの顔を見る。
シモンに判断を委ねたセオバルドは、答えを急かすことなく穏やかな表情のまま。そこに咎める厳しさも、嫌悪もない。
普段と何ら変わらないセオバルドの態度に、教会へ身を寄せてから怯えることなく過ごしてきた日々が、思い出された。
良心の呵責に苛まれたシモンの心が、ぐらりと大きく揺れ動く。
何か勘付いている節のあるセオバルドに嘘を吐き続けるのは、今まで以上に罪悪感が募るだろう。
そうなれば結局、負い目を感じて居づらくなる。
これからも、セオバルドの助手として学び続けていたいのであれば、――今、話さなければならない。彼の信頼を損なうような真似をしてはならない。
シモンは、膝の上に置いてあった両手を、固く握って拳にする。
意を決して、腹に力を込めた。
「あの、ごめんなさい。……最初に、先生に嘘を吐きました」
絞り出したシモンの声は上ずって掠れるも、部屋の隅々にまではっきりと届く。
音を伴い、明確な言葉となって口から零れると、世話になっておきながら長い間騙し続けていたという罪の意識が、改めてシモンの肩にずしりと重く圧し掛かった。
緊張と不安から、顔を上げることのできないまま、シモンは先の言葉を紡ぐ。
「最初は、ただ怖くて。……長く、お世話になるとも、ずっと隠し通せるとも思っていなかったので、先生やシェリーに知られる前に出て行く心算だったんです。でも、色々と良くしていただいて、教会が居心地よくて、今日まで言い出せずに、隠し続けてしまいました」
「……うん」
セオバルドは、一枚の羽根が触れるように優しい、静かな相槌を打つ。
あたたかみのある声が、すっと胸に沁みこんで、シモンの目頭が熱くなる。思いがけずに咽を迫り上がってきた嗚咽を、奥歯を噛み締めることで圧し留める。
声が震えないように、深呼吸をして――。
「本当の名前は、シルヴィです。男じゃなくて、……女です」
――言い終えるのと同時に、シモンは、きゅっと口を引き結ぶ。
刹那、部屋に覆いかぶさる真夜中が、すべての音を呑み込んだ。
「……シルヴィ」
セオバルドが低く囁いて、深夜の静寂を破った。
呼ぶ、というよりは、名の響きを音にして確かめる声音だった。
久しく呼ばれることのなかった自分の名を耳にし、俯いていたシモンはこわごわと顔を上げて、セオバルドを窺い見る。彼の表情に怒りや失望、軽蔑の色がないか探してしまう。だが。
女性であることを告げても、セオバルドが驚く様子は、微塵もなかった。
「それが、君の本当の名か」
「はい……」
おずおずと答えて、シモンは小さく頷いてみせた。
セオバルドの唇が薄く開いて、そうか……と、吐息混じりの声が零れた。
「そう構えなくていい。人攫いに追われたのだと、最初から少年の姿をしていたんだ。君が女性かもしれないと思い至った時に、逃げてくる過程で姿を変える必要があったのだろうと、おおよその理由も想像がついた」
「どうして……?」
ほとんど無意識に、シモンはセオバルドに真意を尋ねていた。
「なんで……、いつから気づいていたんですか? 知っていたのなら、どうして……」
問い質すことをしなかったのか。
セオバルドは眉一つ動かすことなく、ただ、ほんの少し思案するように視線を落とし、手許のカップを眺める。
「思い違いかもしれないと言った通り確証もなく、なんとなく、だ。……でも、そうだな。今日、君の口から聞けて良かった」
「え?」
訊き返すシモンに、セオバルドは視線を上げた。
「私の方から事実を突き付けるか、このまま時間が経って性別を隠しきれなくなれば、君は――。君が言った通り、ここからいなくなってしまっただろうから。……言ってくれて、ありがとう」
女性であることを勘付かれていた上に、嘘がばれたら逃げ出しそうなことまで見越されていたシモンは、いたたまれないほど情けなく、恥ずかしい。
かぁっと熱を帯びた顔を伏せて、軽く呼吸を整える。
――まだ、セオバルドに訊かなければならない、大事なことがあった。
とくとくと強く脈打つ鼓動を押さえつけるように、シモンは大きく息を吸い込んで、きちんと背筋を正す。
「先生、あの……。僕が男の子でなくても、今まで通り先生のそばに、助手として置いてもらえますか?」
少年の姿をしたシモンではなく、シルヴィとして。
一歩踏み出すために、尋ねた。
「シルヴィ」
物静かに、厳かな口調でセオバルドに名を呼ばれ、シルヴィの胸に一抹の不安が過る。
「はい」
ぎこちなく硬い声で返事をするシルヴィに、セオバルドは柔らかに目を細め、微笑んでみせた。
ほんの刹那。
目の前の青年の面差しが、ふと脳裏に浮かび上がったあどけない少年の微笑と重なり、シルヴィは微かに目を見開く。
よくわからないまま、胸の内にある言葉をなぞる。
(――セオ、バルド……?)
湧きあがるのは、ほのかな懐かしさ。しかし同時に、胸を締め付けられるような哀しさを覚える。
そっと片手を胸に当ててみるものの、正体の知れないそれは、風に流される儚い香りのようにシルヴィの指の間をすり抜けてゆく。
(……気のせい、かな)
その不思議な感覚は、跡形もなく消えて、もう思い出せない。
「私は君に、そばにいて欲しいと思っている。……今までと何も変わらないし、変える必要もない。だけど、これからは君を呼ぶ名だけ、変えさせてもらうよ」
シモンと過ごした日々はそのままに。シルヴィと歩んで行く此処からの時間に、セオバルドはひとつだけ、変化を織り込む。
重荷を下ろすように、ほぅ……と深く息を吐きだして。
セオバルドは、くつろいだ表情で冷え切ったカップを持ち上げると、わずかに残っていたハーブティーを飲み干した。




