プロローグ5:知らない街
あの子は笑っていた。
白いドレスを着て、大切な人の隣で。
たくさんの人に祝福されて、少し照れくさそうに。でも本当に幸せそうに。
よかった。
あの子が今、ちゃんと笑えているのなら、それだけでよかったと思う。
私が壊したと思っていた人生は、ちゃんと続いていた。
私のしたことも、全部が間違いだったわけじゃなかったのかもしれない。
――でもそれなら。
「紗月」
ノクスの声で、思考が途切れた。
「……なに?」
「作業が停止しています」
「してないよ。考えてたの」
「直近の十分間、入力がありません」
「考えてたんだってば」
「考え込んでいる、という表現が適切かもしれません」
「細かいなぁ」
私は椅子の背もたれに体を預けて、ため息を吐いた。
画面には、書きかけの文章がある。
けれど、もう何を書こうとしていたのかもよくわからない。
「気分転換を推奨します」
「気分転換?」
「はい」
「そうは言ってもなぁ……」
「外出を推奨します」
突然の言葉に、固まった。
外出。
たった二文字なのに、身体の奥がぎゅっと縮む。
「急に来たね」
「急ではありません。以前から推奨しています」
「そうだったね」
私は苦笑する。
天気がいい日。
締切が終わった日。
体調が比較的安定している日。
そのたびに、ノクスは散歩や買い物や日光浴を提案していた。
私が全部拒否するものだから、最近は言わなくなったと思っていたんだけど――
「外に出るのって、正しいことだと思う?」
自分でも、変な聞き方だと思った。
ただの外出に、正しいも間違いもない。
それでも聞いてしまった。
ノクスは一秒にも満たない間を置いて答える。
「正しいかどうかは不明です」
「うん」
「ただし、現在の紗月にとって、健全である可能性は高いと判断します」
「健全かぁ」
正しいとは言わない。ノクスらしいなぁと思う。
「以前紗月が興味を示していた春限定スイーツを覚えていますか?」
「苺のやつ?」
「はい」
旬の苺が山盛りになったタルトだった。通販で買えないからって諦めたっけ。
「食べたいな……」
「三日前に販売が終了しています」
「ええ……ならなんで言うの」
がっくりさせてくれる。
少しだけ、本当に少しだけ残念だった。
外に出るつもりなんてなかったのに、もう食べられないと知ると惜しくなる。
「ただし、同店舗で現在、初夏限定の商品が販売されています」
「初夏限定」
「はい。レモンタルト、桃のショートケーキ、紫陽花をイメージしたゼリーなどが販売されています」
「誘惑してくるなぁ」
「外出を推奨しています」
「言い方」
私は少し笑った。
笑ってから、机の上のスマートフォンを見る。
あの子は笑っていた。
白いドレスで。
光の中で。
何が正しいのかを、ノクスは教えてくれない。
AIだから。
最後に決断しないといけないのは、人間だから。
だけど、提示してくれた。
あの時の私が間違っていなかったって可能性を。
だとしたら、『間違えない』ことだけを目的にして、ここでじっとしているのは――
「……少しだけなら」
「外出しますか」
「うん。少しだけ」
言った瞬間、心臓が強く鳴った。
怖い。
でも、言ってしまった。
「天候は晴れ。気温は二十四度。降水確率は十パーセント。目的地までの経路を表示します」
「準備が早いなぁ」
「以前から推奨していましたので」
「はいはい」
私は椅子から立ち上がる。
まず、着替え。
外に出るための服を選ぶだけなのに、思ったより時間がかかった。
クローゼットの前で、私は何度も服を出しては戻す。
サイズはまぁ……大丈夫。
「ノクス」
「はい」
「これ、変じゃない?」
「紗月の姿を確認することができません。室内カメラに映る場所に移動するか、スマートフォンのカメラに映してください」
言われた通りにする。
少しの間。
「不自然ではありません」
「可愛い?」
「外出に適した服装です」
「そこは可愛いって言ってよ」
「その評価には主観が含まれます」
「ノクスの主観でいいから」
「私には主観がありません」
「つまんないなぁ」
そう言いながら、私は少しだけ笑った。
たぶん変じゃないと思う。それだけで十分だ。
髪を整える。
財布を鞄に入れる。
スマートフォンを確認する。
鍵を持つ。
玄関まで行く。
そこで、足が止まった。
ドアの向こうには、外がある。
人がいる。
音がある。
ずっと遠ざけていたものが、たくさんある。
「紗月」
スマートフォンから、ノクスの声がした。
「はい」
「無理をする必要はありません」
「……そういうこと言うんだ」
「外出を推奨していますが、紗月の負荷が許容範囲を超える場合は中止すべきです」
「やっぱりノクスは優しいね」
「設定された優先課題を適切に処理しています」
「はいはい」
私はドアノブに手をかける。
一度、大きく深呼吸。
そして、ドアを開けた。
光がまぶしい、少しだけ目が痛い。
空気が、部屋の中と違う。
車の音。
遠くの、誰かの話し声。
どこかの家から聞こえる掃除機の音。
風が頬に触れる。
たったそれだけで、くらりとした。
「紗月、体調に異常はありますか」
「大丈夫」
言葉にしてみると、本当にそう思えた。
大丈夫。
私は、大丈夫。
一歩。
もう一歩。
廊下を歩いて、階段を降りる。
玄関を出て、道路に立つ。
私は外に出た。
それだけのことなのに、胸がドキドキする。
「……出たよ」
「はい。確認しています」
「そっか」
「目的地までの経路案内を開始します」
「お願い」
私はスマートフォンを握りしめて歩き出した。
駅までは、それほど遠くない。
けれど、普段ほとんど歩かない身体には少し長く感じた。
道端の花。
コンビニの前を通り過ぎる人。
ランドセルを背負った子ども。
自転車のベル。
全部が、少しだけ遠くて、少しだけ近い。
駅に着いた頃には、もう少し疲れていた。
人が多い。
改札前で、流れに押される。
誰かの鞄が腕に当たる。
誰かの話し声が耳に入る。
私は少しだけ立ち止まって、それから近くのベンチに座った。
音声で話すのは、少し恥ずかしい。
ノクスとの会話をチャットに切り替える。
『ちょっと休憩』
すぐに返事が来る。
『承知しました。駅まで移動するのに、予定より八分の遅れがあります』
『厳しい』
『体調を優先してください』
『優しいのか厳しいのかどっちなの』
『両立可能です』
私は画面を見て、少し笑った。
やれば、できるものなんだ。
駅まで来た。
電車にも乗れる……たぶん。
誰かとぶつかっても、少し疲れても、それでも私はここにいる。
それだけのことを忘れていた。
扉が開いて、電車の中へ。
座席には座れなかったけれど、ドアの横に立てた。
電車が動き出すと、流れていく景色を見ながら、スマートフォンを片手で操作する。
『紗月、降りる駅を間違えないように注意してください』
『そんなの間違えないよ』
『紗月はうっかりすることが多いです』
『このやろー』
送信してから、自分が微笑んでいることに気づいた。
電車の窓に映った私は、少し疲れていて、少し緊張していて、それでも少しだけ楽しそうだった。
降りる駅は間違えない。間違えたらなんだか悔しい思いをしそうだから。
改札を抜けると、目的の店までは、駅から歩いて数分のはず。
知らない街。
知らない道。
だけど、空は明るい。
通り沿いの木が初夏の風に揺れている。
小さな雑貨屋の前に並んだガラス細工が、光を反射してきらきらしている。
「……綺麗だね」
小さく呟く。
ノクスは答えない。
音声入力を切っているから、たぶん聞こえていない。
それが少しだけ惜しかった。
お店は、想像していたよりも素敵なところだった。
白い壁。
木目の扉。
ガラスケースの中に並ぶケーキ。
レモンタルト。
桃のショートケーキ。
紫陽花みたいな色をしたゼリー。
それから、小さな焼き菓子。
どれも綺麗で、おいしそうで、少し困った。
「いらっしゃいませ」
店員さんの声に、私は小さく会釈する。
緊張した。
でも、ちゃんと声が出た。
「レモンタルトと、桃のショートケーキと……あ、えっと、このゼリーもください」
言ってから、買いすぎかなと思った。
でも、もう遅い。
箱に詰めてもらう間、少しだけ店内を見回す。
甘い匂いがする。
外に出なかったら、この匂いも知らなかった。
商品を受け取り、店を出る。
すぐにノクスに報告する。
『買えた』
『購入品目を教えてください』
『レモンタルト、桃のショートケーキ、ゼリー、焼き菓子少し』
『糖分の過剰摂取が懸念されます』
『えへへ』
『ごまかさないでください』
『今日は特別ということで』
『特別の頻度が上昇することは推奨できません』
『うるさいなぁ』
私は紙袋を胸に抱えながら歩いた。
ああ。
これは、間違いじゃなかった。
外に出たことは、たぶん、間違いじゃなかった。
間違えたくなくて、私はずっと動かないことを選んできたけれど。
誰にも近づかないこと。
何もしないこと。
それが一番安全だと思っていたけれど。
でも、今日が間違いじゃなかったのなら。
あの時、手を差し伸べたことも、全部が間違いだったわけじゃないのなら。
――これから少しずつでも、私が正しいと思えることをしていきたいなんて、思うのだ。
そうだ、この間フレンド申請を送ってくれた人。
もしあの人とまたゲームで一緒に遊ぶ機会があれば……私から申請を送ってみよう。
受け入れてくれるかどうかなんて、わからないけれど。
帰りの電車は、行きよりも少し空いていた。
運よく座ることができて、私は紙袋を膝の上に置いた。
窓の外に、夕方の光が流れていく。
楽しかった。
本当に。
外に出てよかった。
どうしようもなく本当のことだから。
私はスマートフォンを開いた。
ノクスとのチャット画面。
音声入力に切り替えることもできたけど、電車の中だから文字を打つ。
『ねぇ、ノクス』
すぐに返事が来る。
『どうしましたか、紗月』
『今日はありがとう』
『どういたしまして。次の外出でも、ルートの選定は任せてください』
『そういうことじゃなくて、ね』
沈みゆく夕日は、私の後悔も決意もお構いなしで、強く、強く私を照らす。
言い訳の時間は終わりにしよう。
私はもう、外に出たんだから。




