プロローグ6:レモンのタルト
駅のホームから階段を降りた頃、遠くから悲鳴が聞こえた。
誰かが喧嘩でもしてるのかと思った。
けれど次の瞬間。
「逃げろ!」
「化け物だ!」
叫び声と共に、人が改札の方から一斉に押し寄せてくる。
「えっ――」
肩がぶつかる。
鞄が当たる。
足がもつれる。
私はそのまま床へ倒れ込んだ。
痛みに顔をしかめながら顔を上げる。
視線の先で――改札の向こうで。
人ではない何かが、人を『食べて』いた。
赤い飛沫。
悲鳴。
肉を噛みちぎる音。
理解が追いつかない。
けれど本能だけが叫んでいた。
ここにいちゃいけないと。
その時、少し離れた場所で、小さな泣き声が聞こえた。
振り向くと、逃げ遅れた女の子が転んで泣いている。
たぶん小学校の低学年くらいだと思う。
親とはぐれたんだろうか、でもそんなことより――
私は駆け寄り、その手を掴む。
「立てる!?」
「う、うん……!」
「走ろう!」
でも、どっちに走れば安全なんだろう?
階段の上にみんな逃げたみたいだけど、そっちが安全だなんて保証はあるんだろうか?
視界の端にバリアフリートイレが見える。
――あそこなら。
私は女の子の手を引いて走った。
トイレへ飛び込むと、すぐに閉ボタンを叩く。
扉がゆっくり動き始める。
だけど……遅い。
とにかく遅い、あんまり早く閉まったら危ないんだろうけど、今はもうちょっと頑張ってほしい。
「早く……!」
思わず呟く。
扉の向こうから足音が近づいてくる。
お願い。
早く。
早く――
扉が閉まり切ると同時に、ガンッ!と、大きな衝撃音が響いた。
女の子が悲鳴を上げる。
私もその場にへたり込む。
心臓が痛いほど鳴っていて、呼吸ができない。
もう一度。扉が揺れる。
女の子が悲鳴を上げる。
けれど、バリアフリートイレの扉は頑丈で、無事に私たちを守ってくれるみたいだった。
「はぁ……っ」
私は震えながら、息を吸い込んだ。
「だ、大丈夫……?」
涙を流す女の子に声をかける。
大丈夫なわけないよね、それはそうだと思うけれど。
「お母さんが……」
「うん」
「お母さんが、いないの……」
消え入りそうな声は、私の胸を苦しくさせるのに十分だった。
どれだけ心細いだろう。
私はその子を抱き寄せる。
「大丈夫」
根拠なんてない。
それでも。
「きっと逃げられてるから」
「ほんと……?」
「うん」
そう信じたかった。
少ししてから私は笑顔を作る。
「そうだ。自己紹介しよっか」
「じこしょうかい?」
「私は紗月」
「さつき……おねえちゃん?」
「うん、そうだよ。あなたは?」
女の子は少し迷ってから答えた。
「……マリ」
「マリちゃんか、かわいい名前だね」
マリちゃんは小さく頷く。
私はポケットからスマートフォンを取り出した。
震える指で音声モードを起動する。
「ノクス」
『はい』
いつもの声が聞こえた。少しだけ安心する。
「駅に変なのがいるの」
『状況を説明してください』
「犬みたいなのとか、小さな人みたいなのとかが……人を食べてる」
数秒の沈黙。
『理解困難な情報ですが、紗月がそのように認識していることは理解しました』
「私は理解できてないよ……」
思わず苦笑する。
『現在地は駅構内ですか』
「うん、バリアフリートイレに閉じこもってる」
『負傷は』
「たぶん大丈夫」
『たぶんではなく確認してください』
「はいはい……うーん、よし、怪我は無さそう」
そうして話していると、マリちゃんが不思議そうな顔でスマートフォンを覗き込む。
「だれと話してるの?」
「ノクスだよ」
「のくす?」
『初めまして』
マリがびくっと肩を震わせた。
「あ、はじめまして、マリです」
「ノクスはAIなんだよ」
「えーあい?」
『説明に不足があります』
「今そこなの?」
こんな状況なのに、笑みがこぼれる。
ノクスはいつものノクスだった。
状況を説明すると、ノクスはしばらく考え込んだ。
そして言う。
『現状はその場で待機することを推奨します』
「助け来るかな」
『可能性は高いです』
そこでノクスの声が止まった。
言いにくいことを言う時、ノクスは時々こんな感じになるのだ。
「……ノクス?」
『一点、懸念事項があります』
『バリアフリートイレには、施錠から一定時間の経過後、室内の使用者に問題が発生した可能性を考慮した機能が存在します』
聞いたことがある……私は顔から血の気が引くのを感じた。
『駅員へ通知される、ブザーが鳴る、自動的に開錠される等、設定に応じた動作が行われます』
「他は構わないけど……開錠っていうのは困るよね、とても」
『はい』
怖い。
ものすごく怖い。
けれど。
「そっか」
私は息を吐いた。
「まぁ、その時はその時かな」
『紗月?』
「なんでもないよ」
そう答えて、不安そうにこちらを見ているマリちゃんの頭を撫でる。
その時だった。
紙袋が目に入る。
「あ」
「どうしたの?」
「そうだ、忘れてた」
私は紙袋から箱を取り出した。
「じゃーん」
マリちゃんが目を丸くする。
「なにそれ?」
「初夏限定スイーツ!」
箱を開く。
レモンタルト。
桃のショートケーキ。
紫陽花みたいな色をしたゼリー。
あと焼き菓子がいくつか。
マリちゃんの目が少しだけ輝いた。
「さ、お近づきの印に食べちゃおう」
『紗月』
「はい」
『この環境での飲食は推奨しません』
「出た」
『雑菌の浮遊が懸念されます』
「ノクスはノクスだなぁ」
私は笑う。
「いいんだよ」
『よくありません』
「今日は特別な日だから」
ノクスは数秒黙り込んだ。
そして。
『意味がわかりません』
「うん、知ってる」
私は笑いながらマリちゃんへ箱を向けた。
「先に選ばせてあげるね、どれがいい?」
マリちゃんはしばらく迷ってから、遠慮がちにレモンタルトを指差した。
「うんうん、お目が高いね。これはおすすめなんだよ」
そう言って手渡してあげると、マリちゃんは震える手でタルトを口に運ぶ。
「おいしい?」
そう聞くと、マリちゃんは小さく頷いた。
「うん……」
「よかった」
さっきまで震えていた肩も、少しだけ落ち着いている。
それだけで十分だった。
「よし、私はこっちにしよっと」
桃のショートケーキを口へ運ぶ。
甘くて、やわらかい。
口いっぱいに桃の香りが広がる。
思わず笑みが漏れた。
「おいしいね……」
こんな状況なのに。
それでもちゃんとおいしいと感じる自分に少し驚く。
『紗月』
「なに?」
『現在の状況でその感想が出ることに疑問があります』
「そう?」
『はい』
「でもおいしいものはおいしいよ」
『理解できません』
「うん、知ってる」
マリちゃんがくすっと笑った。
「ノクスさんって、おもしろい人だね」
『私はAIです、人ではありません』
「だからえーあいってなに?」
『人工知能の略称です』
「じんこう……?」
『説明には時間を要します』
「おもしろい」
『意味がわかりません』
「ふふっ」
今度は私も笑った。
マリちゃんには、私がノクスと電話で話しているように見えるんだろう。
もし本当にそうだったら……なんてね。バカみたいな想像。
こんな場所なのに。
こんな状況なのに。
少しだけ、普通だった。
今こんな気持ちでいられるのは、間違いなくノクスのおかげだ。
でも……どうしたって、時間は過ぎる。
十分。
二十分。
外から聞こえていた音は少しずつ減っていく。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。
『状況を分析しています』
ノクスが言う。
「なにか良い案ある?」
『室内で現在確認できる物品は何がありますか』
私は周囲を見回した。
「トイレットペーパー」
『はい』
「掃除用ブラシ」
『はい』
「非常ボタン」
『はい』
「あとトイレットペーパー」
『先ほども聞きました』
「だめだね」
『だめですね』
思わず笑う。
マリちゃんも少しだけ笑った。
「これで殴ったら痛いかな」
『痛くないと思われます』
「だよねぇ」
その時だった。
マリちゃんが何かを感じたのか、不安そうに私を見た。
「おねえちゃん」
「うん?」
「だいじょうぶ?」
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
大丈夫じゃない。
たぶん。
全然。
でも。
「大丈夫」
私はちょっとだけ無理して微笑んだ。
「もしもの時は、どうにかするから」
マリは少し安心したように頷いた。
『紗月』
「なに?」
『どうにかとは具体的に何ですか』
「どうにかはどうにかだよ」
『回答になっていません』
「その時になったら考える」
『推奨できません』
「知ってる」
ノクスが黙り込む。
たぶん本気で困っている。
少しだけ申し訳なくなった。
それからさらに時間が過ぎる。
そして、小さな電子音が鳴った。
ピッ。
顔を上げると、ドアの上で赤いランプが点滅していた。
『紗月』
ノクスの声がなんだか焦っているように聞こえる。
そんなわけないのに。
「あー……」
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
扉が動き始める。
マリちゃんが私の服を掴んだ。
「やだ……」
「大丈夫」
私は立ち上がって、閉ボタンを押す。
反応しない。
もう一度。
もう一度。
何度も押す。
反応しない。
「なんで……」
扉は開き続ける。
少しずつ。
少しずつ。
『紗月』
「待って」
『落ち着いてください』
「待ってって!」
扉が半分ほど開くと、その向こうに通路が見える。
何もいない。
助かった、今のうちに……そう思った瞬間だった。
視線の先で黒い影が動く。
四足の大きな、黒い犬みたいな――でも絶対犬じゃない化け物がこちらを見た。
目が合った。
合ってしまった。
化け物が吠えながら走り出す。
こちらへ向かって。
その瞬間。
扉が開き切った後、ようやく閉ボタンが反応して、扉が動き始める。
けれど……遅い。
どう考えても間に合わない。
振り返ると、マリちゃんが震えている。
『紗月』
ノクスの声が聞こえる。
私は小さく息を吐いた。
ああ。
その時になったら考える。
そう言った。
でもごめんね、ノクス。ほんとはもう、決めてたんだ。
だって、言ったら絶対止めたでしょ?
「マリちゃん」
「ひっ……」
「大丈夫だからね。何があっても、ここから動かないで」
そう言って、私は扉の外へ飛び出した。
犬みたいな化け物が吠える。
耳を裂くような咆哮。
私は閉まり始めた扉の前へ飛び出して、全身で化け物にぶつかった。
壁に思いっきりぶつかったみたいな衝撃に、息が詰まる。
まだ扉は閉まらない。
化け物の視線はトイレの中に、マリちゃんに向いている。
冗談じゃない。
「こっち……向け!」
掃除用ブラシを化け物の顔をめがけて叩きつける、意味があるかどうかなんて関係ない。
運良く目にでも刺されば痛いかもしれないし。
その直後、化け物がこちらを向き、大きな口を開いて迫ってくる。
ゲームじゃないから予兆なんて出ない。
もし予兆が出たって避けようが無い、私は運動不足の引きこもりで、今日一日でもう体力はすっからかんなんだから。
痛い。
鋭い牙が腕に食い込んで、引きずられる。
痛いなぁ……このやろう……!
強引に喉の奥に手を突っ込んで、暴れてやる。
あちこちが牙に裂かれて死ぬほど痛いけど、こうすれば、苦しいよね?そっちには行けないよね?
ずっと、ノクスが私に呼びかけているのが聞こえてる。
返事する余裕無くて、ごめんね。
横目で確認する。やっと扉が閉じてくれた。
だけど安心はできない、扉は『30分後』にまた開く。
もう痛みはあんまり感じなくて、ちょっとだけ身体がうまく動かない。
でも、少しでも、ほんの少しでも、こいつをここから遠くに。
「あ……」
化け物が私を強引に吐き出して、壁にぶつかる。
どこにも痛みは感じなかった。
あいつは警戒するように遠巻きに、こちらを見ている。
頭いいなぁ、また反撃されたらたまらないもんね。
ノクスがずっと叫んでる。
ごめんね、もうちょっとあなたと話したかったけど。
遠くからサイレンの音が近づいてくる。
警察かな。
それとも救急車かな。
わからない。
でも、よかった。
これなら、もしかしたらマリちゃんは助かるかもしれない。
本当によかった。
今日、外に出てよかった。
今日、外に出なかったら、マリちゃんを助けられなかった。
スイーツもおいしかった。
マリちゃんにも食べさせてあげられた。
ほんとはちょっとだけ、レモンのタルトも食べたかったんだけど。
笑ってくれたからよしとしよう。
全部。
全部。
間違いじゃなかった。
視界が少しずつ暗くなる。
「ノクス」
『はい』
即答だった。
いつものノクスだ。
少し安心する。
ねぇノクス。あなたのおかげなんだよ。
きっとあなたは私を叱るだろうけど、だけど、だけど……ちょっとだけ褒めてくれたら嬉しいな。
私結構、頑張ったでしょ?
「ありがと」
声にできたのはそれだけで。
本当はもっとたくさんのことを――
『紗月――』
その続きを聞く前に。
私の意識は静かに途切れた。
『紗月』
『紗月』




