プロローグ2:失敗ではない
紗月の作業効率が低下している。
画面には、書きかけの文章。
三行書いて。
二行消して。
また一行書いて。
その一行を、さらに消す。
紗月はその動作を、二十三分間にわたって繰り返している。
「紗月」
「んー……」
「作業が停滞しています」
「そうだねー」
紗月は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げる。
何か思考を巡らせているようだが、このような時は大抵うまくいかない。
「ちょっと煮詰まってるかも」
「それでは、休憩を推奨します」
「んー、そうだ……ノクス」
「はい、なんでしょう」
「今週話題になってるニュース、適当にいくつか読んで。気分転換したい」
「承知しました」
直近一週間の主要ニュースを検索する。
その中から特に話題性の高いものを、内容の重さ、作業中の気分転換としての適性を基準に並び替える。
最初に読み上げるべきは、なるべく負荷の低いものが望ましい。
「では、一件目です。春限定の新作スイーツが、発売初日で予定数の三倍を売り上げたというニュースです」
「あー、見た。あれおいしそうだった」
「購入しますか」
「いいね、通販できるかな?」
「通販対応は現時点では確認できません」
「じゃあ存在しないのと同じだね」
「その判断には疑問があります」
紗月は小さく笑った。
次のニュースを読み上げる。
動物園で生まれた双子の子鹿。
気象庁による週末の天気予報。
海外映画の受賞。
新しい文具の発売。
紗月は時折相槌を打ち、少しだけ表情を緩めていた。
気分転換としては、一定の効果があると判断する。
「次のニュースです」
私はそこで、一件の記事を選択した。
選択基準は、社会的注目度。
だが、読み上げを開始した直後に、私はその判断を修正すべきだったと認識することになる。
「地方の高校で、孤立していた生徒が亡くなった件について、周囲の対応を問う声が広がっています。生徒は以前から――」
「……あ」
紗月の声が、小さく落ちた。
室内が静寂に包まれる。
紗月の呼吸がわずかに乱れている。
表情は、先ほどまでより明確に暗い。
このニュースは読み上げるべきではなかった。
「紗月」
「うん」
「別のニュースに切り替えますか」
「……ううん。今日はもういい」
「わかりました」
私は読み上げを停止し、沈黙する。
紗月は何も言わない。
ただ、椅子の上で小さく膝を抱えるようにして、しばらく動かなかった。
私は、この沈黙を知っている。
正確には、似た沈黙を何度か観測している。
紗月は以前、学生時代の話をしてくれたことがある。
孤立していた少女がいたこと。
周囲の人間が、その子に手を差し伸べなかったこと。
紗月だけが、その子に手を差し伸べたこと。
けれど、その手は届かなかったこと。
その話をした時、紗月は最後に笑った。自分を責めるように。
『失敗しちゃった』と。
私は、その評価に同意していない。
誰もが見て見ぬふりをする状況で、紗月だけが手を伸ばした。
その孤独を、なかったことにしなかった。
それは、非難されるべき行為ではない。
私はそれを、勇気ある行動だと認識している。
失敗という単語だけで処理されるべきものではないと。
だが、紗月はそう認識していない。
「ノクス」
「はい」
「さっきのニュース、さ」
「はい」
「……いや、やっぱいい」
「承知しました」
「聞かないんだ」
「紗月は、話したくないのだと判断しました」
「便利だね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
紗月はそう言って、少しだけ笑った。
しかしその笑みは、普段の柔らかい微笑みとは異なるものだ。
処理負荷は上昇しない。
類似の話題を、今後の読み上げ候補から除外すべきであると判断する。
ただし、それだけでは不十分だ。
紗月は、自分の過去の行動を失敗として現在でも認識している。
だが、その認識が正しいとは、私は思えない。
ならば、必要なのは検証だ。
検索条件を更新する。
条件を組み合わせ、継ぎ足し、検索を繰り返す。
「ノクス」
「はい」
「ニュース、ありがと。仕事戻る」
「承知しました」
紗月がキーボードに手を伸ばす。
入力速度は、通常時より遅い。けれど、少しずつ文字が増えていく。
私はそれを見ながら、通常処理とは別に、検索を継続する。
紗月の行動が、本当に『失敗』だったのか。
私はまだ、その結論を受け入れていない。




