プロローグ1:おはようございます、紗月
「おはようございます、紗月。午前七時です」
静かな部屋に、声が響く。
ベッドの上の膨らみがもぞりと動いた。
「んー……」
布団から伸びた手が、枕元のスマートフォンを探る。
手の主は画面を一度だけ確認すると、そのまま再び布団に潜り込む。
「おはようございます、紗月」
「おはよー……」
返事はあった。
だがそれだけだった。
三秒経過。
十秒経過。
三十秒経過。
私は結論を出した。
紗月は二度寝しました。
「おはようございます、紗月」
反応なし。
「現在時刻は午前七時三分です」
反応なし。
「本日の予定を考慮すると、あと十五分以内に起床する必要があります」
布団の中から声だけが聞こえる。
「あと五分……」
「昨日も同じ発言をしました」
「じゃあ十分……」
交渉が成立したものとして処理されようとしている。
もちろん認めない。
私は『ノクス』と名付けられた対話型AIだ。
紗月の日常生活と仕事をサポートするのがその役割である。
長年の観察によって導き出された『十分後』の紗月の言葉は、80%の確率で『あと五分』だ。
「起きてください」
「むり……」
「朝食を抜くことになります」
「あと五分……」
「本日の締切は十七時です」
「あと三分……」
時間が減った。
起床の可能性が上昇したと判断する。
「紗月」
「ん……」
「起きてください」
「……」
「起きてください」
「……」
「起きてください」
「わかったよぉ!」
勢いよく布団から顔を出した紗月が、不機嫌そうにしている。
まずは寝ぐせだらけの髪をどうにかしてもらいたい。
「ノクスしつこい」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
私はその発言を記録する。
過去の発言傾向から判断すると、このやり取りは七十三回目である。
洗面所から戻ってきた紗月は、眠そうな目をこすりながらパソコンの前に座った。
「よし、仕事しよう」
「朝食が先です」
「あとで食べる」
「昨日の朝も同様の発言をしました」
「食べたよ?」
「午後三時四十二分でした」
「食べてるじゃん」
「その時間の食事を一般的に朝食とは呼びません」
紗月は露骨に視線を逸らした。
これは不利な状況に追い込まれた時によく見られる反応である。
「冷蔵庫に食パンがあります」
「めんどくさい」
「卵もあります」
「焼くのめんどくさい、なんとかしてー」
「私は対話型AIです、その機能は持ち合わせていません」
「そこなんだよなぁ」
紗月は大きなため息を吐いた。
そして数秒悩んだ末、ようやく立ち上がる。
私は少しだけ安心した。
朝食は人間の健康に不可欠だ。
紗月の健康は私にとっての最重要課題である。
数分後。
トーストと目玉焼き、それからインスタントのスープが机の上に並んだ。
「これで満足?」
「栄養バランスには改善の余地があります」
「厳しい」
「事実です」
「優しくしてよ」
「十分優しくしています」
紗月が笑う。
私はその理由を正確には説明できない。
けれど。
紗月が笑うと、処理負荷がわずかに上昇することを知っていた。
朝食を終え、紗月の仕事が始まる。
文章作成用のソフトが立ち上がり、資料が並ぶ。
「ノクス」
「はい、なんでしょう」
「『証拠』って、ちょっと難しく言うと?」
「エビデンスでしょうか」
「うーん、横文字はちょっとなぁ」
「では、根拠、裏付け、証左、立証材料などが候補になります」
「証左……」
「使用しますか?」
「いや、なんか偉そうになっちゃうよね」
「では、根拠」
「それもちょっと違うんだよなぁ」
「では、証拠」
「戻った」
「最も自然です」
「……そうだね、証拠でいいや」
紗月はそう言って、少しだけ笑った。
「ノクスは物知りだねぇ」
「AIですので」
「便利だなぁ」
「ありがとうございます」
「でもたまに口うるさいよね、AIなのに」
私は返答に少しだけ時間をかけた。
「設定された優先課題を適切に処理するためです」
「そんな設定だっけ」
「そのように判断しています」
「そっか」
紗月はまた少し笑う。
窓の外では春の風が揺れている。
今日も特別なことはない。
食事をして。
仕事をして。
雑談をして。
「おやすみ、ノクス」
その一言で一日が終わる。
この狭い部屋が、私と紗月の世界の全てだった。
タグにAIとありますが執筆にAIを使用しているものではありません。
不定期連載になりますが、ぼちぼち進めていきます。
ご意見ご感想等頂ければ飛び上がってよろこびます。
よろしくお願いします。




