ep.27 ファーストキス
心臓の音が自分でも聞こえそうなくらい速くなって、身体がふわりと浮いてしまったような気がした。
頬が熱くなる。
恥ずかしくて俯くと、フェンミルはそんな私を見て、くすりと楽しそうに笑った。
(なんだか、大人の男性って感じ……)
照れている私をからかうこともなく、慌てることもない。余裕たっぷりに微笑む姿にむしろどきどきした。
青の王は私を抱きしめ、ときどき手を繋いだ。けれど、それ以上のことは決して求めてこなかった。その距離感が、今の私には心地よかった。
絵を描いては見せ、「上手だね」と褒めてもらう。
一緒に本を読んで、他愛もない話をする。抱きしめられ、手を繋ぐ。それだけで、胸は満たされていた。
けれど、この部屋で暮らし始めて十日ほど経った頃。
ふと、新しい想いが胸の奥に芽生えた。
(……キス、してみたいかも)
彼と目が合うたび、その唇へ視線が吸い寄せられてしまう。
抱きしめられるだけで幸せだったはずなのに。いつの間にか、もっと欲しくなっている自分に気づいた。
私は読んでいた画集をそっと閉じ、隣で本を読んでいる青の王を見つめた。
その日は朝から、絨毯の上いっぱいにクッションを並べ、その上で並んで読書をしていた。
しばらく私の視線を受け止めていた彼は、本を閉じると、穏やかに微笑む。
「カヤ。そんなに見つめてどうしたんだ?」
「え……えっと……」
照れくさくなって俯くと、彼は少しだけ口角を上げた。
「俺が格好よすぎて見惚れてたとか?」
「もう! 自分で言うの?」
思わず笑ってしまう。
フェンミルも楽しそうに笑い声を上げ、その笑顔につられて私も笑った。
笑いが落ち着くと、部屋は穏やかな静けさに包まれる。
私は意を決して彼を見上げた。
「あのね……」
胸がどきどきして苦しい。
「キス……してみたいの」
自分でも驚くほど小さな声だった。
青の王は大きく目を見開いた。
「急にどうした? まだ早いんじゃないか?」
驚いたように尋ねると、そっと私の頬へ手を添える。彼の優しい指先が頬を撫でる。
「辛いことが続いたばかりだろう。そういうことは、焦らなくてもいいんじゃないか」
その声音には、私を気遣う優しさしかなかった。
その優しさが嬉しくて、胸がじんと熱くなる。
「恋愛小説で読んでね……。ずっと憧れてたの。キス……したいな。してみたい」
沈黙が流れる。
やがて彼は、小さく息を吐いて微笑んだ。
「……可愛いな」
彼は少しだけ目を伏せ、小さく息をついた。
その穏やかな表情の奥に、今まで見たことのない熱が宿っている気がした。
(……もしかして、フェンミルも?)
「でも、本当にいいんだな?」
「うん……。経験してみたい」
彼は私をそっと抱き寄せた。広い胸の温もりに包まれながら、私はゆっくり目を閉じた。
彼の顔が少しずつ近づいてくる。息が触れ合うほど近くなり、やがて、唇が優しく重なった。
(……唇って、こんなに柔らかいんだ)
彼はすぐに唇を離した。
「……どうだ?」
私は何も答えられず、ぼんやりと彼を見つめる。そんな私を見て、彼はくすりと笑った。
「もう一回だけさせてくれ。カヤ」
耳元でそう囁くと、もう一度だけ優しく唇を重ねる。今度は少しだけ長かった。
けれど、それ以上は何も求めてこない。
彼はゆっくりと離れると、額が触れそうな距離で私を見つめ、満ち足りたように微笑んだ。
「……良かったか?」
「うん……」
頬が熱くて、とても彼の目を見られない。私は慌てて俯いた。
(好きな人とキスするって……こんなに嬉しいんだ)
心臓がばくばくして、今にも止まってしまいそうだ。
彼は何も言わず、私をそっと抱き寄せてくれた。
――どうしよう……。恥ずかしい……。自分からキスできるようになるのは、来世かも……。
◇◇◇
夜――珍しく、私は駄々をこねてしまった。
青の王は私の肩まで毛布を掛けると、優しく頭を撫でる。
「おやすみ、カヤ。俺はこれから政務があるんだ。今日はクロバが付き添ってくれる。あいつは今仕事中だけど、終わったら来てくれるよ。安心して眠るんだよ」
私は名残惜しく彼を見上げた。
「……もう行っちゃうの?」
その手を、そっと握る。
「もっと一緒にいたい。……我儘を言って、ごめんなさい」
青の王は困ったように笑った。
「本当に、お前の可愛さには敵わないよ」
彼は優しく息をつくと、部屋の隅にあった椅子を引き寄せ、私の枕元へ腰掛けた。
「少しだけ付き合おう」
彼が手を離すと、その温もりが急になくなってしまって寂しくなる。
私は遠慮がちに手を差し出した。すると彼は何も言わず、その手を包み込んでくれる。それだけで、自然と口元が綻んだ。
「ねぇ、フェンミル」
「どうした?」
「お願いがあるの……」
「欲しい物か?気になる物があるなら買ってあげるよ」
私は小さく首を振った。
「そうじゃなくて……添い寝、してほしいの」
青の王は少し驚いたように目を瞬かせた。そして、しばらく考え込むように私を見つめる。
「添い寝か……。恋人になったばかりだし、それは少し早い気もするけど……」
「サイリンにいた頃は、いつも家族と一緒に寝てたの。だから、一人で眠るのが少し寂しくて……。ソウマやクロバは付き添ってくれるけど……やっぱり、一緒に眠るのをお願いするのは言いづらいし……」
青の王は優しく目を細めると、困ったように笑った。
「お前は、本当に警戒心が薄いな」
私は恐る恐る尋ねた。
「……恋人って、一緒に寝ると、その……もっと先のこともするものなの?」
顔が熱くなり、毛布で口元を隠すと、フェンミルは穏やかに微笑んだ。
「そんなことはしないよ」
その声は、とても優しかった。
「お前は長い間苦しんできた。焦る必要なんてない。そういうことは、もっと先にしよう」
「……嬉しい」
思わず笑みが零れた。青の王も優しく笑い返す。
「それなら、眠るまで一緒にいよう」
そう言うと、彼は静かにベッドへ上がった。
寝台がわずかに揺れる。
(フェンミルと一緒に眠るの、初めてだ……)
少しだけ緊張しながら、私は彼の腕の中へ身を寄せた。
その温もりに包まれると、不思議なくらい安心する。
(やっぱり、この腕の中が一番落ち着く……)
「まったく……」
青の王は苦笑しながらも、愛おしそうに私の頭を撫でた。
「本当に可愛いな、お前は」
その手の温もりが心地よくて、私はゆっくり目を閉じる。
(フェンミルは眠らないんだよね……)
以前クロバから聞いた。
青の国の悪魔たちは、何年かに一度、短時間眠れば十分な身体らしい。
(寝顔、見てみたかったな……)
そんなことをぼんやり考えているうちに、瞼はどんどん重くなっていく。
彼の腕の中は、とても暖かかった。
安心感に身を委ねながら、私は静かに眠りへ落ちていった。




