ep.25 私たちは恋人
◇◇◇
五日目になった。
(今日こそ帰ってくるかな……)
私は図鑑のページをめくる手を止めた。
朝から同じところを何度も読み返しているのに、内容はまるで頭に入ってこない。じっと座っていることにも耐えられず、私は本を閉じると、落ち着きなく部屋の中を行ったり来たりした。
その途中で、ふと全身鏡の前に立ち止まる。
――今日、帰ってくるかもしれないんだよね。せっかくなら、可愛い姿でお出迎えしたいな。
私は鏡に映る自分を、上から下までじっと眺めた。
今着ているのは、濃い紫色の生地で仕立てられたAラインのワンピースだ。柔らかな布地で着心地は良いけれど、落ち着いた色合いのせいか、どこか大人びて見える。私の雰囲気には、あまり似合っていない気がした。
――このワンピース、着心地は最高だけど、大人っぽすぎるかも……。青の王から贈られたワンピースに着替えよう。
私はクローゼットを開き、ミントグリーンのワンピースを取り出した。
着替えを済ませ、もう一度鏡の前に立つ。
このミントグリーンのワンピースには、腰から裾にかけてたっぷりとフリルがあしらわれている。胸元には、大きな白いリボンが飾られている。明るい色のせいか、先ほどよりも顔色まで良く見えた。
――うん。こっちの方が、私らしい!
鏡の中の自分へ向かって微笑む。
――せっかくだし、髪も結おうかな。好きな男性の帰還は、いつもより可愛い姿で出迎えたいもの……。
私はクローゼットの引き出しから櫛と髪ゴムを取り出した。
全身鏡の前に立ち、絡まった髪を丁寧に梳かしていく。それから左右に分けた髪を少しずつ重ね、時間をかけて三つ編みにした。
最後に髪ゴムで留め、左右の長さを確かめる。
――完成!かなり綺麗に結えたんじゃないかな?
私は少し浮き立ちながら、鏡の中の自分を眺める。
けれど、その喜びは長く続かなかった。
(でも……帰ってこなかったら、意味ないよ)
胸の奥へ、冷たい不安が忍び込んでくる。
私は、鏡に映る自分の顔に触れた。鏡はひんやりと冷たい。
(本当に、帰ってくるのかな……?)
もし、誰かが怪我をしていたら。もし、帰ってこなかったら。考えたくない光景ばかりが、次々と頭に浮かんでくる。
視界が、じわりと涙で潤んだ。私は俯き、唇を強く噛んだ。
そのときだった。ノックすらなく、部屋の扉が勢いよく開いた。
「カヤ!ただいま!」
聞きたかった声が、静まり返っていた部屋へ飛び込んでくる。
弾かれたように顔を上げると、扉の前に青の王が立っていた。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
青の王の後ろには、ソウマとクロバもいた。
二人とも怪我ひとつない。いつもと変わらぬ姿で、私の不安をすべて分かっているかのような穏やかな笑みを浮かべていた。
三人の表情を見た瞬間、青の国が戦争に勝ったのだと分かった。
「おかえりなさい!」
声を上げると同時に、私は駆け出した。
青の王は嬉しそうに目を細め、私を迎えるように両腕を大きく広げる。
私は迷うことなく、その腕の中へ飛び込んだ。逞しい腕が、私の身体をしっかりと抱き留めてくれる。五日ぶりの温もりだった。
頬を広い胸へ押しつけると、張り詰めていたものが一気にほどけ、涙が溢れた。
「帰ってきてくれて……良かった!」
震える声でそう言うと、青の王は私を抱く腕へ、いっそう強く力を込めた。
「全員……無事? 大丈夫?」
「ああ。大丈夫だよ。ソウマもクロバも怪我ひとつしてないだろ?」
青の王が腕を緩めてくれたので、私はその隙間からソウマとクロバを見上げた。
確かに、二人とも傷ひとつない。すり傷さえ見当たらず、服にも泥や血の跡はついていなかった。
――どうして?戦争に行っていたのに……。帰ってくる前に着替えたのかな?
「ソウマ! クロバ! おかえりなさい!」
「一人で待たせてすみません」
クロバは少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「寂しくなかったか?」
ソウマは優しく目を細め、私の頭を撫でてくれる。
「すっごく寂しかったよ。でも、ちゃんと待ってた」
そう答えた途端、また胸の奥がいっぱいになった。
(三人が死ななくて、本当によかった……!)
安堵の息を吐くと、青の王がもう一度、私を腕の中へ引き寄せた。
「もう安心していい。お前を虐待した家族も、お前を傷つける者も、誰もいないからな」
青の王は満足そうに目を閉じた。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
――私の家族、死んじゃったの……?ギショウ王やミイも……?
敗戦国の王族や官僚がどうなるのかくらい、私にも分かる。
もう私は家族に怖いことはされない。ギショウ王からも搾取されない。それは嬉しい。だが、胸に鋭い痛みが走った。
――家族が死んでも、ギショウ王が死んでも嬉しくないわ……。いや、嬉しいのかな?だって、酷いことされたんだもの。どうしよう……自分の気持ちが分からない……。
「そんなに暗い顔をしてどうした?」
青の王が少し身を屈め、探るように私の瞳を覗き込んだ。
私は慌てて笑顔を作る。
「ううん!何でもないの。まだ不安が残ってるみたい……」
――私のために戦ってくれたのに、嬉しくないなんて言えない……。
「そうか。だが、もう大丈夫だからな」
青の王は私の頬を優しく撫で、それからふと目を細めた。
「ところで、今日は三つ編みなんだな。よく似合っている。可愛いよ」
(気づいてくれた……!)
胸の奥に残っていた冷たいものが、ほんの少しだけ溶けた。
青の王は、私の三つ編みにそっと触れた。それだけで鼓動が速くなり、頬が熱くなる。
私は彼の服を、ぎゅっと掴んだ。
「あの……恋人になるなら、これからは、お父さんじゃなくて……フェンミルって呼んでもいい?名前で呼びたいの……」
青の王は一瞬目を見開いたあと、心から嬉しそうに笑った。
「もちろんだよ、カヤ」
「……フェンミル」
初めてその名を口にすると、彼の笑みがさらに深くなった。
私たちは、しばらく見つめ合って微笑んだ。
その少し後ろで、クロバとソウマが無言のまま目配せを交わしていた。
二人の表情には、ほんのわずかに苦いものが浮かんでいる。
けれど、二人が何を考えているのか、私には分からなかった。
「そうだ!」
青の王が、思い出したように明るい声を上げた。
「カヤのための部屋が完成したんだ。今から見に行かないか?」
「うん!行ってみたい!」




