ep.2 王女なのに歴史を教えてもらえない
◇◇◇
「では、本日の授業はこれで終わりです」
教師が静かにテキストを閉じた。
(ああ……疲れた。もう数学やだ……)
私は深いため息をつき、そのまま机へ突っ伏した。
頭の中は数字でいっぱいだ。私が質問を繰り返したせいだろう。教師も心なしか疲れた顔をしている。
それでも、一つだけ聞きたいことがあった。
私はゆっくりと顔を上げる。
「先生……」
「はい、カヤ姫」
「どうして、今日まで歴史の授業がないんですか? 私、王族ですよね?」
教師は一瞬だけ動きを止めた。しかしすぐに、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべる。
「歴史の授業は必要ありません」
「どうしてですか?」
「王家の歴史も国の歴史も、お兄様やお姉様方がすべてご存じです。カヤ姫は何も心配なさらなくて結構ですよ」
「でも、私も知りたいです。サイリン国のことを、もっと」
私は首を傾げた。教師の笑みは崩れない。
「カヤ姫はただ、愛らしさで王族の皆様をお慰めすれば良いのですよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。私は王族なのに、本当に何も知らなくていいのだろうか。
「でも、お父さんは言っていました。サイリンは魔界で一番強い国なんだって」
「ええ、その通りです」
教師は静かに頷いた。
「そして、これからますます強くなります」
そのときだった。
教師が私を見つめる瞳に、ほんの一瞬だけ温度が消えた気がした。まるで、価値を測るような、道具を見定めるような冷たい眼差しに、私は思わず息を止める。
だが、次の瞬間にはもう、いつもの穏やかな教師に戻っていた。
(気のせい、かな)
家族も臣下たちも、普段はみんな優しい。彼らの私を見る目は、陽の光のように温かい。だがごく稀に、こんな風に、底冷えする眼差しで、彼らは私を見るのだ。
――いや、きっと勉強で疲れているのだろう。私の考えすぎだ。
私はそう自分に言い聞かせ、無理やり笑顔を作った。
「先生。サイリンは魔界一の芸術国家なんですよね?」
「ええ」
今度こそ教師の表情は明るくなった。
「我が国の芸術は世界に誇れるものです。絵画も彫刻も織物も、どの国からも高く評価され、高値で取り引きされています」
教師は壁を指さした。
「ご覧ください。部屋へ入られたとき、タペストリーが一枚替わったことにお気づきになりましたか?」
私は視線を向ける。そこには見覚えのない一枚が飾られていた。
「……綺麗」
水辺で戯れる黒馬と白馬。陽光を受けた水面は今にも揺れそうで、木々の葉は風にそよいでいるように見える。まるで本当に、その景色が壁の向こうに広がっているかのようだった。
「我が国自慢の染色技術で染め上げた糸を使っています。それを最高峰の織師が織り上げるのです」
教師は誇らしげに続ける。
「木立の奥をご覧ください。今にも精霊が姿を現しそうでしょう」
私は何度も頷いた。
「サイリンって、本当にすごい国なんですね……」
そして、小さく付け加える。
「先生は、芸術のことはたくさん教えてくださるんですね」
「芸術は我が国の誇りですから」
静かに微笑むと、教師は話を終わらせるように教材を片付け始めた。
「今日はもう十分でしょう。お疲れでしょうから、ゆっくりお休みください」
その口調は、先ほどまでの誇らしさとは違い、どこか事務的だった。
私は教師の横顔を見つめる。
(……これ以上は、聞いても教えてくれない。)
そう悟ると、小さくため息をついた。
◇◇◇
「お母さん! 授業終わったよ! お父さんとの馴れ初め、聞かせて!」
授業が終わるなり、私は母の部屋へ駆け込み、そのまま勢いよく抱きついた。
「まあ。この子ったら、もうすぐ十九歳になるのに、相変わらず甘えん坊ね」
母は私を優しく抱き留め、くすりと笑う。
「私、身長が小さくて良かった! ゼアキなんて百八十センチもあるでしょう? あんなに大きかったら、お母さんに抱きつけないもん」
「あらあら」
母の鈴を転がすような笑い声が部屋に響く。
私は身長百三十センチほどしかない。だから今でも、母の腕の中にすっぽり収まる。
「もう寝る時間だし、お話はベッドの中でしましょうか」
「うん!」
母と並んで布団に入る。ふかふかの毛布に包まれると、それだけで幸せな気持ちになった。
「それで、お父さんとはどうやって恋に落ちたの?」
私が声を弾ませると、母は懐かしそうに目を細めた。
「私はね、美しい花が咲き誇る小国で生まれたの」
「花がいっぱいある国なの?」
「ええ。城の庭園は一年中花が咲いていて、とても綺麗だったわ。よく花畑で、心を癒やしたものよ」
そこまで話した母の表情が、不意に曇る。さっきまで穏やかだった笑みが静かに消えた。
「……私は末娘だったの。でもね、お母様と四人のお姉様から、毎日いじめられていたわ」
「えっ……お母さんが?」
思わず声が裏返る。
――どうしてだろう? お母さんが綺麗すぎるからかな?
「私は気が弱くて、ただ耐えることしかできなかったの」
私は胸が締めつけられた。お母さんの悲しみを想像すると、辛い気持ちになる。
「それでね。ある日、お父さんとのお見合いの話が五人姉妹全員に来たの」
「へえ!」
「でも、お姉様たちは誰一人として行きたがらなかった。だから私が押しつけられたのよ」
「どうして?お父さん格好いいし、サイリンは芸術の国なんでしょう?」
母は小さく笑った。けれど、その笑みはどこか冷たかった。
「サイリンには、昔からこんな噂があるの――『サイリンの王族の女は地獄』だとね」
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