ep.16 ソウマの過去と美しい景色
目の前には、巨大な翡翠色の池が広がっていた。
陽の光を受けた水面は、まるで磨き上げた宝石のように輝いている。角度によって青や紫が混ざり合い、底は深い色に沈んで何も見えない。
池を一周するだけでも五分はかかりそうだった。
私は思わずしゃがみ込み、水面を覗き込む。
(魚がいるのかな……?)
目を凝らしても、水底も魚も、水草さえ見えなかった。
隣では、ソウマがそんな私を嬉しそうに見つめている。
ふと顔を上げる。
頭上には、どこまでも続く青空。白い雲がゆっくりと流れ、穏やかな風が頬を撫でる。その風に銀髪がさらりと揺れた。
「ガラス越しじゃない空は……こんなに美しいんだね」
思わず目が潤んだ。すると、ソウマの笑顔が少しだけ曇る。
「そうか……。これからは、外へ出たくなったらいつでも言ってくれ」
「うん……ありがとう!」
私は辺りを見回した。
池の周囲には白い砂地が広がり、その向こうには低い岩山が連なっている。切り立った岩壁の上では、まばらな木々が静かに風へ身を委ねていた。
――ここ、どこなんだろう?森なのかな?自然なんて初めて……。
胸がどきどきする。
だからソウマは、私をここへ連れてきてくれたのだろうか。
目の前に広がる景色は、まるで一枚の名画の中へ迷い込んだようだった。
私はしゃがみ込み、池をじっと見つめる。
風に揺れる水面は、光を受けるたびに翡翠色から赤、紫へと微妙に表情を変える。
私は、恐る恐る爪先を水へ沈めてみた。
「……あったかい」
温泉のようにじんわりとした温もりが指先を包む。湯気ひとつ立っていないのに、不思議なくらい心地よかった。
――緑色の池に手を入れたら、手も緑色になるのかな?
気になった私は、思い切って右手を手首まで水へ浸してみた。
ゆっくり引き上げる。
「……あれ?」
手はいつも通り白いままだ。
何度も手のひらと池を見比べる。
――色って移らないんだ……。じゃあ、どうしてこの池は緑色なんだろう?
「ねぇ、ソウマ。この池には魚がいるの? それに、どうして緑色なの?」
「水底に生えている水草の影響で、緑なんだよ」
「そうなんだ……! じゃあ、きっとエメラルドグリーンのきらきらした水草なんだね!」
その言葉に、ソウマは思わず吹き出した。
「カヤって、ピュアなんだな」
楽しそうな笑い声が、静かな池のほとりに響く。
「え?」
首をかしげる私に、ソウマは笑みを浮かべたまま答えた。
「この池の水草は、ピンク色なんだよ」
「えっ!? ピンク!?」
私は思わず池を見つめ直す。
――ええ!? どういうこと? 水草がピンクなのに、なんで池は緑色なの!?
頭の中は疑問符でいっぱいになる。
そんな私を見て、ソウマは優しく笑いながら、そっと私の両手を包み込んだ。
「緑色をしてる理由は、水草を食べる魚とか、この池固有の成分のせいだよ」
「そうなの?なんか不思議だね……」
「説明すると長くなるよ。それより、他にも綺麗な場所があるんだ。今度は花を見せてあげる」
その言葉に、胸が弾んだ。
(どんな花なんだろう……!)
ソウマはすぐに瞬間移動魔法を発動した。
視界がぐらりと歪み、翡翠色の池がゆっくりと遠ざかっていく。浮遊感が収まると、私はゆっくり目を開けた。
「わあ……!」
目の前に広がっていたのは、一面の花畑だった。
黄色やオレンジ色のマーガレットが、風に揺れながらどこまでも咲き誇っている。
「綺麗……! マーガレットだ!」
思わず駆け寄り、そっと花びらへ触れる。
陽の光を浴びた花は、切り花とは違う生命力に満ちあふれていた。
「地面に咲いてる花って……いきいきしてるんだね」
思わず漏れたその言葉に、ソウマの表情がはっと曇る。
「……もしかして、切り花しか見たことがないのか?」
「温室でなら、鉢植えのお花は見たことあるよ」
「そうか……」
ソウマは胸が痛むように目を伏せ、小さく息をついた。
「可哀想に……。これからは、たくさん連れてきてあげるからな」
そう言って、優しく私の頭を撫でる。
「可哀想……? 私が?」
私は首をかしげた。
「綺麗なお花は、家族にお願いすれば贈ってもらえたよ? 絵のモチーフや見本によく使ってたし」
ソウマは切なそうに微笑んだ。
「……そのうち分かるよ」
(何がだろう……?)
問い返そうとしたとき、ソウマはしゃがみ込み、マーガレットを一本一本丁寧に摘み始めた。そして、器用な手つきで花を編み込んでいく。
「ねえねえ、何してるの?」
私は気になって、彼の肩をつんつんとつつく。
ソウマはくすりと笑った。
「花冠を作ってるんだ」
「花冠? 妖精が頭にのせてる、あれ?」
「そう。それ」
最後の花を編み込むと、ソウマは満足そうに頷いた。
「……できた」
「わあ! ソウマって器用なんだね!」
目を輝かせる私を見て、ソウマは柔らかく微笑む。そして、出来上がった花冠をそっと私の頭へ載せた。
「うん、似合う。可愛いよ」
青い瞳に見つめられ、胸がどきりと鳴る。
「ほんと? 嬉しい……」
思わず花冠へ触れながら笑う。
「ソウマも頭にのせたら?」
「それはさすがに恥ずかしいな」
照れくさそうに笑って首を横へ振るソウマを見て、私もつられて笑ってしまった。
「きっと似合うよ!ソウマの金髪に、黄色い花は映えるはず……」
そのとき急に、私ははっとした。
――もしかして、ソウマのこの外見も偽装なのかな?
彼はギショウ国ではオウカという偽名を名乗り、正体を隠して潜入していた。それなら、容姿を変えていないはずがない。
「あのさ、ソウマの外見も、変装してるの?」
私がソウマの顔をまじまじと見つめると、彼は急に顔を曇らせた。
「ああ。この顔も魔法で変えてる。髪も瞳も、顔立ちも。本当の姿じゃない。身長だけは魔法で変えられないからそのままさ」
「そ……そうなんだ。なら私、ソウマの本当の姿を見てみたいかも……」
ソウマは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐにいつもの優しい笑みを浮かべると、指をぱちんと鳴らした。次の瞬間、ソウマの全身が淡い白い光に包まれる。すると、ゆっくりと髪と瞳の色が変わり始めた。
金髪だった短髪は、根元から毛先にかけて徐々にセピア色に変化していく。アクアマリンのような青い瞳は、だんだんと濃さを増していき、夜空のように幻想的なエンパイアブルーへと変わった。
――なんて美しいの……。高価な絵の具でしか見たことないような色彩だわ……。
呼吸を忘れて見惚れている内にいつの間にか、顔立ちも変貌を遂げていた。
オウカの姿をした彼は、間違いなく美形だった。しかし今、目の前にはオウカを凌駕する絶世の美男がいた。
(青の王ですら、ここまでかっこよくないわ……)
「ソウマって、凄く綺麗ね……。羨ましい……」
私がため息をこぼすと、彼の瞳に影が落ちた。
「羨ましくなんてない。全然良くない。こんな容姿、引き剥がしてしまいたい……!」
ソウマが語気を荒げる。私は意味が分からなかった。
――なんで? こんなに美しいのに? 綺麗なのは良いことなんじゃないの……?
「この容姿のせいで、客に指名されることが多かった。こんな顔に生まれなければよかった!」
苦しいものを吐き出すような声音に、私の胸は締め付けられた。
(そうか……。この容姿はソウマを苦しめたんだ)
美しさは、通常なら賞賛されるものだ。だが、立場が変われば、美貌すら苦痛になるというのか。
「俺は自分の容姿が嫌いだ。だから普段から、髪と瞳の色を定期的に変えてる。顔立ちもな。……潜入工作が終わった後も、潜入中のときの容姿のままで長期間過ごすこともざらにある」
「ええ? 頻繁に容姿を変えてるってこと? それって変に思われない?」
「青の臣下たちは俺の事情を理解してる。だがカヤの言う通りさ。ころころ容姿を変えてたら他国に行ったときに変に思われる。俺の表向きの肩書は、青の王の補佐官だからな」
「ソウマは青の国でも補佐官なんだ……」
「そうだよ。だから、俺は髪や瞳の色や顔立ちを変えるのが趣味ってことになってる。青の臣下たちも口裏を合わせてくれるからな。外交で他国に行くときに容姿を変えても、俺は変に思われないんだよ。そういう奴ってことさ」
――自分の顔を好きになれないなんて、どれくらい苦しいんだろう……。ソウマは辛かったんだ……。
胸の奥が、じんと痛んだ。
「そうだったんだ……。男娼だったときは、どうやって暮らしてたの?」
「話したくないな。あれは、この世の地獄だった」
ソウマは目を逸らした。私は彼の瞳の中に、深い悲しみを見た気がした。
――ソウマは今でも、トラウマに囚われてるのかな……?
「やっぱり、諜報員の仕事は辛いの……? 恋人になって情報抜くんでしょ……?」
私が躊躇いがちに目を伏せると、ソウマはふっと大人びた笑みを浮かべた。
「諜報の仕事には、相手を翻弄する楽しさもあるよ」
「あれ? 楽しいの……?」
「自分が磨いたスキルや教養で、相手を思い通りにできるからな。万能感がある。それは、楽しい」
「それ……?」
「けどな、俺は男娼じゃなくなったが、今でも性を使われてるんだよ……。青の王にな」
ソウマの表情が一気に暗くなった。
「だから、この仕事には楽しさと同時に苦痛もあるよ。俺は搾取されたままさ」
「搾取……されたまま……」
「俺は、俺の性を使う青の王を怨んでる。でも同時に、感謝してるし尊敬してる。俺を地獄から救ってくれたからな」
「複雑なんだね……」
「……暗い話になったな。悪い」
「ううん」
私は首を横に振る。
「話してくれて、ありがとう」
その言葉に、ソウマはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「少し歩くと、この先にピンクのマーガレットが咲いてるよ。行ってみるか?」
「ほんと!? 見てみたい!」
ぱっと気持ちが晴れる。
「じゃあ、行こう」
私は差し出された手を握る。その温もりは優しく、どこか安心できた。
私はソウマに手をひかれて歩きだした。
――ソウマは、辛い環境にいたから、私の心の痛みが分かるのかな? ……だから、助けてくれたんだ。




