ep.17 街が存在しない国?
◇◇◇
マーガレットの花畑を思う存分歩き回ったあと、私とソウマは瞬間移動で貴賓室へ戻った。
ソファへ腰を下ろすと、私は頭から花冠を外し、両手でそっと包み込むように眺めた。
一本一本丁寧に編み込まれた花は、まだ瑞々しく、ほんのり甘い香りを漂わせている。
「楽しかったか?」
隣から穏やかな声が聞こえた。
「うん! すっごく楽しかった! 花畑って、絨毯みたいだね!」
目を輝かせて答えると、ソウマは目を細める。
「そうか。それはよかったよ」
ふと、彼の顔へ視線を向ける。
いつの間にか、ソウマは元の変装姿――金髪と青い瞳のオウカの姿へ戻っていた。
――変装しない方がかっこいいのに……。もったいないな……。でも、これがソウマにとっての幸せなんだろうな。外見を変えて気持ちが楽になるなら、その方がきっと良いよね。
花冠をそっと膝の上へ置き、小さく息をつく。
そのときだった。
部屋の扉が静かに開き、青の王がゆっくりと姿を現した。
「カヤ。池と花畑を楽しんできたんだって? また出かけるといい」
穏やかな声でそう言うと、彼は向かいのソファへゆったりと腰を下ろした。
(座っているだけなのに……かっこいい)
その何気ない仕草ひとつで、私は思わず見惚れてしまう。
「カヤは花が好きなのか?」
「……うん。花の絵も好き」
「そうか。なら、これをやろう」
青の王が指をぱちんと鳴らす。次の瞬間、机の上へ音もなく一冊の分厚い本が現れた。
「図鑑?」
「魔界に咲く珍しい花を集めた図鑑だ」
私は目を輝かせながら表紙を開く。
「わあ……!」
ページいっぱいに広がるのは、見たこともない花々だった。花びらが幾重にも重なるもの、宝石のように透き通ったもの、青空のような澄んだ色をしたもの――どれも幻想的で、美しかった。
夢中になってページをめくる私を見て、青の王は満足そうに笑う。
「ソウマ。別の花畑にも連れて行ってやるといい」
「そうですね。カヤ、一緒に行こうか」
私は図鑑から顔を上げ、小さく笑った。
「えっと……今日は、もう部屋でゆっくりしたいかも。たくさん歩いて疲れちゃった」
「そうか。なら今日は休もう」
無理に誘うこともなく、ソウマは優しく頷いた。
私たちのやり取りを見届けると、青の王は静かに立ち上がる。
「俺は政務へ戻るよ。合間を抜けてきただけだからな」
「……もう行っちゃうの?」
せっかく会えたのに。もっと話をしてみたかった。そんな気持ちが、思わず口をついて出た。
青の王は柔らかく目を細める。
「また明日、会いに来るよ」
その言葉に胸がほっと温かくなる。
「あの……」
私は少しためらいながら彼を見上げた。
「いきなり『お父さん』って呼んじゃったけど……これからも、そう呼んでいい?」
青の王はおおらかに笑った。
「もちろんだ」
(嬉しい……!)
胸の奥から喜びが込み上げる。
「じゃあ、またな。カヤ」
「うん……お父さん」
その一言を口にしただけで、胸の中に温かなものが広がっていく。
(これからは、本当に青の王が私の家族なんだ)
その日は夜になるまで、私は夢中で花の図鑑を眺めて過ごした。
隣では、ソウマが変わらず穏やかに付き添ってくれている。
安心できる場所があって、家族と呼べる存在がいて、大切にしてくれる者がいる。
そんな当たり前の幸せに包まれながら、その夜、私は久しぶりに何の悪夢も見ることなく、深い眠りについた。
◇◇◇
翌朝、目を覚まし、お茶を飲んでいると、ソウマがどこか楽しそうな表情で口を開いた。
「カヤ。今日は、この城の歓談室に行ってみないか?」
「歓談室? 何それ?」
私は飲み終えたティーカップを机へ戻す。小さく、カチャンと音が鳴った。
「青の臣下たちが談笑したり、カードゲームをしたりして交流する部屋だよ。皆、よくそこで過ごしているんだ」
――つまり、この城で働く臣下たちに会うってこと?
ソウマは、私を皆に紹介したいのだろうか。
「絵の具を持って行って、そこで絵を描くのはどうかな。もちろん、カヤが嫌じゃなければだけど」
私は少し考える。
(ソウマ以外の臣下か……)
緊張する。でも、少しだけ会ってみたい気もした。
「う……うん。行ってみようかな」
おそるおそる頷くと、ソウマは嬉しそうに立ち上がり、棚から黒いトートバッグを取り出した。
「昨日の夜のうちに、絵の具もパレットも紙も入れておいたんだ」
そう言ってバッグを軽く持ち上げる。
「さあ、一緒に行こう」
ソウマが私へ右手を差し出す。
私はその手を見つめ、小さく息を吸うと、そろそろと自分の手を重ねた。
すると、瞬間移動特有の揺らぎと浮遊感が、全身をふわりと包み込む。それが収まると、私とソウマは広い部屋の壁際に立っていた。
背後の壁一面には天井近くまで本棚が並び、正面には長机が三卓ずつ二列に整然と配置されている。
部屋では三十人ほどの悪魔たちが思い思いに過ごしていた。彼らの髪や瞳、肌の色はさまざまで、数人ずつ集まってカードゲームを楽しむ者もいれば、少し離れた場所で一人静かに本を読んでいる者もいる。
奥にはソファも置かれていたが、そこには誰も座っていなかった。
私たちが現れた瞬間、その場にいた悪魔たちの視線が一斉にこちらへ向いた。
胸がどくんと跳ねた。
好奇心に満ちた視線を浴びた途端、思わず俯いてしまう。自分でも分かるほど心臓が激しく脈打っていた。
その変化に気づいたのだろう。ソウマは何も言わず、私の手を優しく引いて窓際の長机へ案内した。
そこは端の席で、五席離れた場所では赤髪の悪魔がこちらを気にする様子もなく読書に没頭している。その長机には他に誰も座っておらず、とても静かだった。
ソウマが椅子を引いてくれたので、私は小さく頭を下げて腰を下ろす。
彼はトートバッグから絵の具や紙を取り出し、手際よく机へ並べた。
「カヤ。今日は何を描くの?」
「えっと……鳥の絵を描こうかな……」
まだ視線が気になり、私は俯きがちに答える。
「それなら、これ。昨日用意しておいたんだ」
そう言って差し出されたのは、一冊の薄い画集だった。
表紙には、紫色にきらめく羽を持つ魔鳥が大きく翼を広げている。
「綺麗……! こんな魔鳥がいるんだ!」
胸が高鳴り、思わずページをめくる。
鮮やかな羽を持つ鳥、虹色に輝く尾羽を広げた鳥、骸骨のような模様を宿した鳥――どの魔鳥も美しく、見ているだけで心が躍った。
(どの魔鳥を描こうかな……)
私は、自分が緊張していることをつい忘れ、ぱらぱらとページをめくった。
ふと顔を上げると、さっきまでこちらを見ていた悪魔たちは、それぞれ談笑したり、本を読んだり、カードゲームを続けたりと、思い思いの時間を過ごしていた。
もう、誰も私を見ていない。
(もしかして……気を遣ってくれたのかな)
私が緊張していることに気づいて、あえて視線を向けず、そっとしておいてくれたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
私が画集の最後のページをめくると、そこには長い尾羽を持つ魔鳥が描かれていた。尾羽には目玉のような模様が幾重にも連なり、大きく羽を広げた姿は、まるで一枚の豪華な扇のようだ。
(なんて派手な魔鳥なんだろう……。これを描いてみようかな)
私は画集を机へ置き、紙の上へ静かにペンを走らせる。
形が納得いくまで何度も描き直し、ようやく下絵が完成すると、今度は絵の具を選び始めた。
(この魔鳥は全身真っ赤だけど……青と紫で描いてみよう)
チューブから絵の具をパレットへ出し、水を加えて色を混ぜる。別の紙へ試し塗りを繰り返しながら、思い描いた色になるまで少しずつ調整していく。
水は、ソウマが小瓶に入れて用意してくれていた。
私が夢中で色を作っている間、ソウマは本棚から分厚い本を一冊取り出し、隣で静かに読み始めた。ときどき彼の視線が私の手元へ向けられる。
どれほど時間が経ったのだろう。
最後の一筆を入れた私は、大きく息をついた。
「できた……! ねえ、ソウマ! 見て見て!」
ソウマは本を閉じ、私の描いた絵へ目を向けると、その瞳を輝かせた。
「凄い……。色使いが本当に綺麗だ。この尾羽なんて、青から紫への移り変わりが見事だな」
「でしょ! 先だけ薄紫にしたの!」
嬉しくて私は思わず身を乗り出す。
「黄色や桃色も混ぜたのか。それに……」
ソウマはパレットへ視線を落とし、少し驚いたように笑った。
「絵の具、全部使ったのか?」
机の上には、色とりどりの絵の具で埋め尽くされたパレットが四枚並んでいた。
「うん!三十色全部使ったよ。それだけじゃ足りなくて、たくさん混ぜて新しい色も作ったの」
「やっぱり、カヤは色彩センスがいいな」
その言葉に、胸がふわりと軽くなる。自分の描いた絵を褒めてもらえるのは、何度経験しても嬉しい。
「あのね、ソウマ」
私は完成した絵を眺めながら言った。
「今度は街並みを描いてみたいな」
「街か。いいと思うよ」
「だから、青の国の街を歩いてみたいの。どんなお店があるのか見てみたい!」
胸を弾ませる私を見て、ソウマは楽しそうに笑った。
(今度、連れて行ってくれるのかな)
そんな期待が膨らんだ、そのときだった。
「実はな、青の国には街がないんだ」




