ep.10 あなたとの出会いと追手
私が何も答えられずにいると、ギショウ王は穏やかに微笑んだ。
「安心しなさい。酷い目にあった君をサイリンに突き返したりしないよ」
その一言に、張り詰めていた胸が少しだけ緩む。
「……ありがとうございます」
思わず小さく頭を下げると、ギショウ王は軽く頷き、円卓のティーカップへ視線を移した。
「オウカ。茶を入れ直せ。ストロティーがいいんじゃないか? 飲みやすいだろ? そこの棚に摘みたての茶葉がある」
「かしこまりました」
「ミイは彼女の部屋を用意してやれ。俺の部屋の隣がいいな」
「お任せください」
ギショウ王は少し考えてから続けた。
「それと、臣下たちには彼女の素性を知らせるな。『重要な客人を迎えた』とだけ伝えればいい」
――? なんで国王の部屋の隣なんだろ? 重要な客だからってことかな?
不思議に思っていると、ミイがソファから立ち上がった。ギショウ王もソファから腰を上げる。
「オウカ。彼女からもっと詳しく話を聞くんだぞ」
「了解しました」
二人は部屋を出ていった。最後にミイだけが振り返り、ひらりと手を振る。
扉が静かに閉まる。広い部屋には、私とオウカだけが残された。
オウカは柔らかく微笑む。
「さて、ストロティーを淹れよう。おいしいよ」
「あの……ストロティーって、どんなお茶なんですか?」
「ギショウで栽培されている茶葉だよ。魔界のお茶は苦いものが多いけれど、これは珍しく違うんだ。口当たりがまろやかなんだよ」
オウカは棚から茶葉を取り出し、茶器へ静かに入れた。そして、ポットからゆっくりと湯を注ぐ。
ほどなくして、爽やかな柑橘と香草を思わせる香りが、部屋いっぱいに広がった。
彼は棚に並ぶティーカップの中から、薔薇の絵柄が描かれたものを二客選び、澄んだ液体を静かに注ぐ。
茶葉を量る指先にも、湯を注ぐ所作にも一切の無駄がない。
思わず私は、その手元に見入ってしまう。
「さあ、どうぞ」
オウカはソーサーごと私の前へティーカップを置いた。
なんだか、一流の執事に給仕をされているようで、私は少しだけ落ち着かなくなる。
「……ありがとう」
私はティーカップを覗き込み、小さく目を見開いた。
ストロティーは驚くほど澄みきっていた。琥珀色でも黄金色でもない。まるで湧き水のように透明だ。
(透明なお茶なんて初めて見た……)
不思議そうに見つめていると、オウカは私の向かいへ腰を下ろし、先に自分のティーカップへ口をつけた。
(飲んでも大丈夫だよって、安心させてくれてるのかな……)
私も恐る恐るカップを持ち上げる。外でお茶を飲むなんて、生まれて初めてだった。そっと口をつけ、一口飲み込む。
「……おいしい」
思わず声が漏れた。
味そのものは驚くほど淡い。それなのに、飲み込んだ瞬間、柑橘の爽やかさと香草の香りがふわりと鼻へ抜けていく。
優しく澄んだ後味が、冷え切っていた心まで少しずつ温めてくれるようだった。
「気に入ってくれて良かったよ」
オウカはカップを置くと、安心したように笑う。優しい笑みにつられて私も自然と笑顔になった。
「他にも何かもってこようか? 料理とか。ずっと寒い部屋に閉じ込められてきたんだろう? 食べれば元気が出るよ?」
「えっと……。私、食べたことがないの。お茶ならよく飲んでるけど……」
私が目を伏せると、オウカの表情が固まった。
「食事をしたことがない?いままで一度も?」
「……うん。結婚するまで食べちゃ駄目って、家族に言われてたの。『私たちが用意したものだけ口にしなさい』って」
オウカは眉間にしわを寄せた。
「なんとも奇怪な話だ。悪魔は食事不要とはいえ、娯楽で食べるだろ? 食事会を開催する王族なら尚更だ」
「うーん。私は食事会なんて行ったことないから、料理は必要なかったのかも? 皆はどういうときに食べるの?」
「メインは客を招く食事会だな。けど、食事会は上流階級のものだよ。一般市民は娯楽として美味しいものを街中で買って食べたり。あとは、戦時中は皆よく食べるぞ。食べた方が体力とか、パフォーマンスが上がる。まあ、普段は食べない。悪魔は食べなくても死なないからな」
「悪魔の食文化って、そうなってたんだね……!知らなかった!」
オウカは、小さく目を閉じた。まるで、自分が傷ついているみたいに。
「痛ましいな……。何も知らされずに、監禁されていたのか」
(痛ましい?私が?)
「……せっかくだし、何か食べさせてあげたい。おいしいものをもってくるから、待っていて」
オウカが立ち上がろうとするので、私は両手を振って慌てて止めた。
「待って!私、食べたくないかも!」
「なぜ?」
オウカは驚いたように腰を下ろす。
「かなり前にね、苦いお茶を飲んだことがあるの。そのとき私は、渋すぎて飲めなかった……。以来家族は甘いお茶しか出さなくなったの。その……魔界の食べ物はほとんどが苦いって教師から聞いたよ。だから、せっかく用意してくれても食べられないかも……。ごめんなさい」
「そうか。謝る必要はないよ。喜ばせたかっただけなんだ」
オウカは柔らかく笑った。
――オウカの笑顔、好きかも。優しくて安心する。……家族も、こんな風に優しく微笑んでくれたのに……。
胸の奥がちくりと痛んだ。目の奥が熱くなり、慌てて俯いた。
(いきなり泣き出したら、変かも……)
「大丈夫?」
オウカの落ち着いた声が耳に届く。
「今まで辛かっただろう? これから俺は君に色々聞くけど、答えたくなかったら答えなくて良いからね」
(オウカって優しいんだな……)
「ありがとう……。オウカ……」
オウカは様々なことを私に聞いてきた。私は、一つ一つできるだけ丁寧に答えていった。
◇◇◇
「君だけ私室がない? それで普段から、家族の誰かの部屋で過ごしてた?」
オウカは片眉を跳ね上げた。私は素直に頷く。
「うん……。お母さんやお父さんたちと寝たり。お兄ちゃんの部屋で遊んだりしてたの」
「……なるほどね。プライベートがないわけか。いつも誰かが側にいる。つまり、力の覚醒が来るのをずっと待っていたということか。常に一緒にいれば、その瞬間を見逃さずに拾えるからね」
「私……、ずっと見張られてたの?」
震える声で問い返すと、オウカは顎に手を当てて考え込んだ。
「単純に、手元に置いて管理しやすくするためかもしれない」
(管理……?)
「……こんな分析、君は気にしなくていい。嫌なことを言ってすまない」
オウカの鋭い眼差しに、誠実な光が宿った。
「いえ……」
そのときだった。コンコン、と扉がノックされる。
返事を待たずに扉が開き、ミイが軽い足取りで部屋へ入ってきた。
「お待たせ! カヤ! オウカ! 部屋を整えたよ」
「随分遅かったじゃないか。もう二時間はたってるぞ。どうせ、王と話し込んでたんだろ」
ミイが側まで歩み寄ると、オウカは責めるような眼差しをミイに投げた。しかし、ミイは気にすることもなく、あっけらかんと笑った。
「ごめんな。そうだ、カヤ。君のために、服とか色々用意したよ。サイリンは芸術の国だろ? だから絵の具とかも揃えといた。少しでも落ち着けるようにと思ってね。それじゃあ、君の部屋に行こうか」
微笑むと、ミイは自然な仕草で私の手を取った。
――なんだろ、優しいのに、ミイの笑顔ってどこか怖いかも……。オウカは安心するのに……。
ミイは笑っている。口調も明るい。親切にもしてくれている。それなのに、その笑顔の奥には、何か危ないものが隠れているような気がしてしまう。
――いや、きっと気のせいね。せっかく助けてもらったのに、私ってば失礼かも……。
私は胸のざわめきを押し込め、小さく笑顔を返した。
◇◇◇
「ここがカヤの部屋だよ」
「わぁ……。これが私の部屋?」
――自分の部屋なんて、初めて! これが全部私だけのものなの?
胸がどくんと高鳴る。
私は小さな部屋をゆっくりと見回した。
十畳ほどの広さがある部屋は、白を基調としていた。壁も床も天井も、家具も、やわらかな白で統一されている。
天井の近くには、青いステンドグラスでできた小さな円形の窓が五つある。まるで、青空のようだ。
壁際には大きな棚が置かれ、絵の具や絵筆が色ごとに美しく並べられている。その下の棚には、可愛らしい挿絵の入った本が何冊も収められていた。
棚の上段には物が置かれていない。きっと、身長が低い私では届かないからと配慮してくれたのだろう。
ミイは部屋の中央まで歩くと、小さなクローゼットを開いた。
「服も用意しておいたよ」
中にはワンピースが十着ほど綺麗に並んでいた。
「はい。これがカヤのワンピース。これとか似合いそうじゃない?」
ミイが取り出したのは、淡い桃色の生地に、裾いっぱいへ百合の刺繍が施された可憐なワンピースだった。
「可愛い……! ありがとう!」
(家族以外からの服の贈り物なんて、初めて!!)
「靴下とかはこの引き出しに入ってるから。あとで着替えるといいよ」
「何から何まで、親切にありがとう……」
言葉が詰まる。
部屋も、服も、画材も。誰かが私のために選び、用意してくれたものばかりだ。
――これが人生で初めての、私専用の場所なのかも……。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
ミイとオウカは、そんな私を見て静かに微笑んでいた。
◇◇◇
私は、夜まで本を読んで過ごすことにした。
棚から一冊の本を取り出し、ソファへ腰を下ろす。 表紙には、水仙の精霊が微笑む美しい挿絵が描かれていた。
ページをめくる。 物語の世界へ引き込まれていく。
私の隣では、付き添うと申し出てくれたオウカが、時折ペンを走らせながら静かに書類へ目を通していた。
部屋に響くのは、紙をめくる音と、ペン先がさらさらと紙を滑る音だけだ。
――一人でゆっくり本を読むなんて、久しぶりだな……。こういう穏やかな時間って、貴重なものだったんだ。
監禁されていた部屋には、毛布が一枚あるだけだった。絵も本も、誰かと穏やかに過ごす当たり前の時間も、何一つなかった。
私はそっと本の表紙を撫でる。
(本があるって、幸せなことなんだ)
安全な場所を得たせいだろうか。張り詰めていた糸が切れ、気づけば、本の上へ一粒の涙が落ちていた。
一度あふれた涙は、もう止まらなかった。
「大丈夫か? カヤ……。これを使え」
私が嗚咽混じりに泣きだすと、オウカがハンカチを差し出してくれた。私は震える手でそれを受け取る。だが、涙を拭おうとしても次々とあふれてくる。
「家族に酷いことされて、辛かったの……。閉じ込められて……怖かった。家族の、冷たい目が怖かった。もうあんな場所に、帰りたくない……!」
「……苦しかったな」
オウカは優しく私の頭を撫でてくれた。途切れ途切れの私の話を聞きながら、黙って寄り添ってくれる。
どれくらい泣いただろう。
やがて涙が落ち着き、私はゆっくりと顔を上げる。
オウカは、何も言わずに私を見つめていた。その青い瞳には、同情だけではない、胸を締めつけられるような悲しみが宿っていた。
――なんでそんなに悲しそうに私を見るの?
もしかして、私の話を聞いて、自分のことのように苦しくなってくれたのだろうか。
(オウカってとても思いやりがあるのね……)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「少し落ち着いたか?」
「うん……」
オウカは安心したように微笑んだ。
「そうか。もう夜も遅い。そろそろ寝るといいよ」
「分かった、お休み。オウカ」
「おやすみ、カヤ」
私はベッドに横になった。
――ふかふかだ……。柔らかい。監禁部屋の床とは違うわ。それに、あったかい……。
暖かい部屋で、柔らかな寝具に包まれて寝る。それは、こんなに幸せなことだったのか。
私は、そっと毛布を口元まで引き上げた。このぬくもりを噛みしめていたかったから。
ふと、ソファに視線を向けると、オウカは真剣な表情で書類仕事をしたままだった。
「オウカ……」
「ん? どうしたんだ?」
私が呼びかけると、オウカは顔を上げ、視線をこちらへ寄越した。
「あなたは寝ないの?」
「ああ、俺は睡眠が不要な体質なんだ」
「寝なくていいの? どういうこと?」
「悪魔には、毎日睡眠が必要な悪魔と、数年に短時間眠れば十分な悪魔の二種類がいるんだよ」
「そうだったの……!? オウカは寝なくていい悪魔?」
「うん。まあ、俺みたいなのは、この辺りだと超珍しい体質さ」
「? そうなんだ……」
オウカはクスリと笑った。
「俺のことは気にしなくていいよ。ゆっくり寝な」
「うん……。分かった」
私はもう一度毛布へ顔をうずめた。
――知らないことが、まだこんなにある。
食べ物のことも、お茶のことも、睡眠のことも。
私は今まで、小さな世界しか知らなかったんだ。
そんなことを考えているうちに、重くなったまぶたはゆっくりと閉じていき、私は穏やかな眠りへ落ちていった。
◇◇◇
私は、ゆっくりと瞼を開いた。
そっと身を起こすと、書類仕事をしていたオウカは笑顔を向けてきた。
「おはよう、カヤ。よく眠れた? 寝心地はどうだったかな?」
「うん! ぐっすりだよ。寝具はふかふかだし、幸せ」
「そうか。柔らかい羽毛布団を用意したんだけどね。固めの寝具が好きな悪魔もいるからさ。何か不便があったら言ってね」
――こんなによくしてもらってるのに、不満なんてあるはずないよ……。
私は起き上がると、本棚から本を一冊取り出した。昨晩同様、読書をして過ごすことにする。
私は書類仕事を続けるオウカの隣で、静かに本をめくる。穏やかな時間が流れていく。
しばらくすると、部屋の扉が開き、ギショウ王が姿を現した。
「おはよう。カヤ。住心地はどうかな?」
ギショウ王は向かいのソファへ優雅に腰掛け、ゆったりと足を組む。
「えっと……。とてもいいです! オウカも親切ですし! 感謝してもしきれないです!」
「それは良かったよ」
「ところで……家族は私を探してないんですか?」
私が小さく肩を縮こませると、ギショウ王とオウカの表情がわずかに引き締まった。
「サイリンからは、すでに君の捜索願いがでてるよ」




