キー・ウエストのコンサート
秋になって色味が濃くなった紺碧の海を見晴らして、真っ白な砂浜が開けている。ブルーのブーツカット・ジーンズにタンガリーのウエスタン・シャツの初老の男が、海に向かって遠い想いに心寄せながら腰を降ろしている。男は白髪まじりのロングヘアを後ろに束ね、顎髭を蓄えて、柔らかな風に吹かれている。男は遠くても今も鮮明に記憶に残るひとつひとつの思い出をしみじみと噛みしめ、黙って海と青空を見つめていた。男は毎日、こうして午後のひとときを過ごしている。
やがては70才になる年老いた男は、名前を世賀聖人という。今では自前のスタジオでのセルフ・レコーディングだけに力を注ぐ、知る人ぞ知るミュージシャンである。彼は世界の有名ミュージシャンたちから一目を置かれていて、時おり世界の映画のサントラを手掛け、新作の噂が出るたびにネット上がコアなファンたちで騒ぎになる。
浜の上には白い教会のようなアメリカン・ハウスが建っている。広々としたウッドデッキ。ガレージには、ブルーの古臭いシトロエンのHバンが駐車している。この家が静かな生活を送る彼の住処だ。裏庭の一画には奇妙なフォルムのモニュメントが立つ。
男は砂浜を踏みしめて足跡を残し、のんびりとビーチハウスへと向かった。
やがては海岸通りの向こうの方から素朴な車のエンジン音が聞こえてきた。男はそんなエンジン音の方へと眩しそうにその顔を上げた。すると米軍のものらしい一台の白いジープが、聖人のビーチハウスへと向かってきていた。この家のことは、わずかな近親者しか知らないはずだ。どうやら久しぶりに我が家に来訪客がやって来るようだ。
32年前。2000年の10月のことだ。初めてのアメリカでのツアーは8月のカリフォルニアのロングビーチに始まって、ニューメキシコ州エルパソ、テキサス州ヒューストン、北部に渡ってイリノイ州シカゴ、ニューヨーク州ロングアイランド、それからそのまま東海岸を南下していって、フロリダ南部のキー・ウエストへと向かっていた。
美しく咲き誇った熱帯の花々。青い海、白い波、焼けた砂浜。コンク貝の貝殻。その道には、真っ青な空と海岸沿いの常夏の風景が何処までも続いている。樹の枝に停まった極彩色のコンゴウインコ。カラフルな建物に南国風の町の看板たち。のんびりしたリゾートの町並が、道路の左右をゆるやかに流れてゆく。
古い時代に録音された『インプラント』『ミッシング・タイム』『グレイ』などのUFOとアブダクションに関するテープの内容が途切れとぎれに流れて聞こえている。続いて『プロジェクト・ブルーブック』『UFOのフラップ・エリア』『コンドン委員会』『未確認飛行物体』『ミステリー・サークル』『メン・イン・ブラック』『キャトル・ミューティレーション』『エリア51』『ファティマの奇跡』『ロズウェル事件』『マジェスティック12委員会』などのUFOやそれに関する研究資料や、記録写真やインタビュー映像などが、とある空軍組織の官僚のデスクのコンピュータに次々と映されてチェックされていった。
海辺の町では、軒先に吊るされた貝の風鈴が海風にうるさいほどにあちこちで鳴り響いている。辺りには茂り放題のバラの香りが漂っている。白銀のジュラルミン・ボディを明るい陽光に輝かせ、ダークグレイのスモークガラスの一台のエアストリーム310・クラシック・モーターホーム・ターボ・ディーゼル1が、通りを選んで、雑多な人々が行き来しているキー・ウエストの海辺の町中を進んでゆく。
車は常夏の島の風景に異彩を放ちつつ、時おり何かのビラを通りに撒きながらのんびりと町中を巡っている。この車は、シボレー製の7400ccという巨大なディーゼル・エンジンを積んだ1984年モデルを、大幅にチューンアップして改造したものだ。大きなアメリカ製のフードトラックを思い浮かべると、イメージしやすいかも知れない。
町を行き交う人々は、そんな奇抜なモーターホームを珍しそうに見送って、各々にビラを手に取って立ち止まると、訝しい顔付きになってそのビラに目を通していた。ビラには『スペース・バッハ』と言うまったく聞き覚えのないバンドの無料コンサートが、今度の満月の夜に海岸公園で行われると記されていた。
それから数日後の週末、海岸公園は夕暮れを迎え、夕陽の鮮やかなオレンジ色に染まっていた。静まり返った広場では、数十名の仕事帰りの見物人たちが集まっていた。見物人たちは各々に立ち話をしたり、出店で買ったポップコーンやタコスを食べながら、のんびりと石段に腰掛けたりしていた。
海岸線の美しい海の風景をバックに、昼時に町中で見掛けた白銀のエアストリームが、息を殺したようにひっそりと駐車している。左右にバランスよく並べられた音響用のスピーカー。人々はいつ始まるとも分からないコンサートの始まりを待って、そんな奇妙なモータホームを見つめ、時間のことも気にしないで、それを遠巻きに取り囲んでいた。
やがては日が落ち切って夜になると、モーターホームの運転席と助手席のウインドウ近くに張り出して設置されていた照明灯に明かりが灯され、ミラーボールが回転した。次には数少ない見物人たちを前にして、ループしたシンセサイザーの静かな演奏が始まった。それを聞いて見物人たちは、これから何が始まるものかと口々に話していた。
改造したモーターホームのコンテナ部分が、二枚貝さながらにゆっくりと縦に割れ始めた。そして天井側に配置された大量のバリライトがいくつもの光の筋を中空に踊らせた。見物人たちはいよいよ何かが始まりそうだと、息を飲み、上体を乗り出した。
照明の眩い光に満たされて、モーターホームの荷台からは、トンボの眼のようなラウンドフレームのミラーのサングラスに、ヘッドホン・マイクを付けたロングヘアの日本人ミュージシャン、世賀聖人が、神秘的な楽曲をシンセサイザーで演奏しながら、まるで満月から降臨したかのように現れてきた。銀のスパンコールのスーツと銀色のラメのVネックに身を包んだ聖人のその姿は、一見、無表情で、異邦人そのもので、体をゆらゆらと揺らしながら高性能のコンピュータやエフェクターやサンプラーなどと、4台のシンセサイザーを巧みに操っている。聖人のそんな姿が、コンピュータのコントロールで動きと色彩を正確に変える、夜空を照らして動き踊っている数十本の光の筋に、一際明るく、光り輝いてみえている。
運転席の後部にあるコンピュータとミキシング・テーブルに向かって影のように腰掛けるもう一人の男は、聖人の親友で、エンジニアを務める星野英樹である。
英樹は驚きにどよめいた見物人たちに冷静に目をやって、ステージで演奏している聖人と納得したその顔をチラリと見合わせた。
そして英樹はコンピュータに楽曲用のプログラムを確認し、ミキシングとエフェクターに、そしてライティングにと、まるで手品師のように感覚的に、即興的な演出を加えた。
海の上に煌々と浮かび上がっている大きな赤い満月。モーターホームのステージ上では、準備したセットリストに従って淡々と二人によるコンサートが続けられていた。
二人の奇抜な演出は、島に住む人々の心を強烈に鷲掴みにしていた。南国の人たちにはあまりに鮮烈で、好奇心を駆り立てていた。近所の人々がそんな神秘的な音楽を耳にして、夜空で踊っている光彩を見上げながら、次第に海岸公園に集まってきた。
子供たちや老人たちも家々から出てきて、近隣の人々が次から次へと広場に集まってきて、人々のその数は一気に400人を超すようになっていた。そして光の筋が踊っているモーターホームを取り囲みながら、宇宙船が地上に着陸したかのような二人の神秘的なコンサートに耳を傾けていた。聖人が語りかけるように歌うのは『THE SACRED DOMAIN(神聖な領域)』という名の楽曲だ。
私は現世も未来も退屈で 夢の無い者が
夢想に耽けていられる 過去の土地にいる
君は神をその目にするために ドラッグを常用する
まるで内側から溶けて無くなる 雪の塊のようだ
私は今だからこそ君に 伝えておきたい
過去を知れば 未来がきっと見えて来るはずだと
今さら君が神の怒りを 恐れてどうなるのか
君が犯して来た罪に比べたら 生ぬるいはずだ
聖人の歌には一種奇妙な説得力があった。そして彼は神がその身に取り憑いたかのように、祈りと願いをメロディと副旋律と対旋律に巧みに込めながらシンセサイザーの演奏を続けた。一方、英樹はエフェクターを操作して、初期型のバリライトのスイッチングをくり返して、絡み合うライトの流れで夜空と広場を色彩っていた。
そんなコンサートの写真や情報がインターネットを経由して、遠くの人々のスマホやタブレットに飛び交っていた。加えて、噂を聞き付けた人々が慌てて車を走らせて、夜空で羽ばたくように踊って見えているライトの渦を目印に、島のあちこちから集まってきた。
神聖な領域で 何千年もの間 私は眠りを貪り続けてきた
長い間 私は目覚めを待ち望んできたのだ
神聖な領域で 何度太陽は 沈んでは昇っていっただろうか
君が訪れるその時を 私は待ち望んできたのだ
多くの車がダイナーや海岸公園の駐車場に停められていった。そして各所にある駐車場が満杯になると、車は周辺の道路の路側に列をなして駐車されるようになった。そうして通りには車が大量に停められて、無料のコンサートをしている海岸公園は、感嘆する人々のざわめきと人だかりで一杯になった。
溢れ返ったライトの光に、聖人は銀のスパンコールのスーツをキラキラと光らせていた。そんな彼の姿はエキセントリックで、それでいて神々しく、彼は自身を神の代わりと崇める信者たちに切々と語りかける救世主のように、その歌を切々と歌い上げていった。
現在は鳥カゴのように とても狭い 狭すぎる
狭い世界で暴れると 君が傷付くことになる
君の償いが報われる時は 今しかない 今この時だ
禁じられたドアを今こそ 君の手で開け放つのだ
海岸公園は周辺から集まってきた町の人々で一杯になっていた。スロウなリズムと大地と夜空とを結ぶライトの渦は常に正確にシンクロナイズされていて、聖人と英樹の二人からなる『スペース・バッハ』のコンサートは、いよいよ佳境へと入っていった。
聖人はボコーダーとハーモナイザーとを要所要所に活用して、甘くて切ない低いトーンの歌声で英語のその歌を歌っていた。
神聖な領域で 何千年もの間 私は眠りを貪り続けてきた
長い間 私は目覚めを待ち望んできたのだ
神聖な領域で 何度太陽は 沈んでは昇っていっただろうか
君が訪れるその時を 私は待ち望んできたのだ
空は今も青く高いだろうか? 風は今も吹き続けているだろうか?
海は今も波を運んでいるか? 木々は今も緑だろうか?
そして、やがてはその歌を終えると、聖人は静かな表情になって、ゆっくりと、あえて余韻を引きずるかのようにその演奏を終えた。聖人は静かに呼吸を整え、満足した表情になった。それからマイクに諭すように呟いた。
「・・・今夜は何もやって来ない。穏やかに眠ることだ」
ボコーダーを通した聖人の言葉は不可解なものだった。ミキサーの前でコンサートの様子を見守っていた英樹は、納得して笑みを浮かべてコンピュータのプログラムを終了させた。すると点滅している小さな赤い明かりだけを残して、夜空を照らしていたバリライトはその光を消した。山のように集まった見物人たちは、まるで集団催眠におちいったかのように身動きを忘れていた。そうしてコンサートが行われていた海岸公園の広場は、深い沈黙に包まれていた。
深夜になって、静まり返った海岸公園の広場では、手元をライトで灯しながら、黒シャツにブラック・ジーンズの普段着になった聖人と、派手なオレンジ色のシャツの英樹が、スピーカーのひとつひとつを車の荷台へと積み込んでいた。
スピーカーはYAMAHAに特注した、コーンが薄くて重低音のウーハーを搭載した、見かけよりずいぶんと軽量のものだ。それを荷台のレールの上に積み上げて重ね、留め具を簡単にロックした。すると、限られたカーゴ・スペースに思う以上にたくさんのスピーカーを積み込むことが出来るのだ。二人はのんびりとコンサートの片付けをしながら、リラックスして、ライムをカットして、しっかりと冷やしたコロナを飲んだ。日本語で、英樹が言った。
「思っていた以上にうまく行ったな」
「ああ、初めは何だってうまく行くものだ。ここまでのところはビギナーズ・ラックってところだろうな」
「世賀は相変わらず用心深いな。良く言うだろ。頑丈な石橋だって、叩き過ぎたら壊れちまうぜ。今夜のところは、成功を成功として祝っておけば良いんだよ。後のことはその時になって考えるさ。神のみぞ知るってさ」
「お前は良いよな。いつもお前みたいに考えられたら、どれだけ楽だろうかって思うよ」
夜空には凄まじい数の星たちが煌めいていた。そんな夜空から、赤い満月の真下にみえている木立の梢の緑葉を揺す振って、地上にあった昼間の喧噪を洗い流すかのように柔らかく海風が吹き抜けていった。
荷台に荷物を積み込んだ聖人が、人気が無くなった広場の方へとぼんやりと目をやった。そこでは、わずかに居残っていた見物人たちが話をしながら帰路に向かおうとしていた。そんな街灯の近くから出店の周辺を見てみた。するとホットドッグの出店の傍らに、見るからにひ弱そうな少女が一人、雨にずぶ濡れになった子猫のようにブルブルと震えながら立ち止まっているのが見えた。少女は公園にやって来て家族か友達たちとはぐれたのか、どことなく淋しそうで、ひどく弱々しく見えていた。
少女の年頃は17才か18才か。長いブラウンの髪が汚れて乱れていて、裾と肩のあたりがほつれた安っぽい、水色の花柄の黄色いワンピースを身に着けていて、不可思議そうに聖人の一挙一動を見つめていた。
聖人はそんな少女のことを気に掛けないようにして、黙ってコンサートの片付けを続けていた。ところが、しばらくすると、聖人は少女の奇異な眼差しが気になって、今も広場にポツンと佇んでいる、そんな少女のところへと歩き出していった。
英樹が、不意に歩き出していった聖人の背中に目をやった。
「どうしたんだ?」
「ああ。・・・」
聖人は、車の運転席から言葉をかけた英樹に生返事して、ゆっくりと少女のところヘと歩いていった。聖人は途中、小さく独り言を呟いていた。「今夜は何も現れないはずだったのに、・・・」
聖人は少女の前に立ち止まった。懐疑的な顔付きになってわずかに体を震わせている少女の姿は、何かにひどく脅えているように思えた。聖人は少し前屈みになって、少女の顔を覗いてみた。
「どうした?」
英語で話しかけてみた。すると少女は聖人を少し観察して、男が自分を傷付ける大人でないことを悟って、小さく頷いてみせた。そして、こう返した。
「・・・スターマンだね」
薄汚れた風体をした、ひ弱な少女の不可解な言葉に、聖人は優しく笑みを浮かべて、彼女へと尋ねた。「君、名前は?」
「・・・メリッサ」
「一人なのか?友達は?」
「そんなのいない」
「それじゃあ、お父さんやお母さんは?」
「それもいないの。・・・」
夜も深まったマイアミへとつながるセブン・マイルズ・ブリッジ。海上を突っ切って渡る高速道路から見渡せる足下の海面には無数の夜光虫が集まってきていて、まるで海の一面に銀河が広がっているかのように見えていた。
フロントライトを煌々と灯して、聖人と英樹のエアストリームは、そんなセブン・マイルズ・ブリッジを一路マイアミへと走り抜けていた。運転席には英樹がいて、不機嫌そうな顔付きをして車のハンドルを握っている。聖人は助手席でわずかに申し訳なさそうだ。ベンチシートの二人の間にはメリッサが座り、聖人の上体に寄り掛かって、安堵して、心地良い眠りに就いている。
英樹が責めるように聖人に尋ねた。「良いのかよ、この娘」
「仕方が無いだろ。迷子のようだしさ。あんな田舎より、マイアミまで連れていって、警察に届けた方が安全だろ?」
「まあ、それはそうだけど。しかし困っちまうだろ、こんな道連れはさ」
最初は遠慮がちだったが、寝相の悪さからなのか、メリッサがすべてを託すかのように聖人の上体にもたれ掛かってきた。聖人はそれを知って、気まずい感覚におちいった。
その時は何が起きたのか良くは分からなかった。聖人は仕方なく彼女を守るように、腕を回してその肩を抱いた。少女は安心したらしく寝顔に薄っすらと笑みを浮かべていた。
マイアミのココナット・グローブに到着したのは真夜中をとおに過ぎていた。海岸線を走り抜ける国道沿いでは、パームツリーがほんの少しだけ海風に揺れていた。通りの先には『パラダイス・モーテル』の派手なネオンサインの大きな看板が見えてきた。
海に向かった前庭には、空色のソラ豆型の大きめのプールがある。建物の横側に広がった駐車場には、聖人たちの銀色のジュラルミン・ボディのエアストリームが駐車していた。
モーテルのフロントで宿泊手続きを済ませ、英樹が駐車場へと戻ってきた。英樹はステップに足を掛け、運転席側のウインドウからその顔を覗かせて、今も眠ったままでいるメリッサと二人して車中で待機していた聖人に話した。
「二部屋取っておいた。お前はこの娘の面倒を見てくれよ。せっかくマイアミまでやって来たんだ。俺は部屋に入って一息ついたら、後でちょっとだけ街まで遊びに行ってくる。たまの息抜きってやつだ」
「一人で行くのか?」
英樹が顎でメリッサを指して「だって、ほら」と言った。
「そうだよな。・・・分かったよ」
ちょっとばかり気掛かりだが、自ら撒いてしまった種なので、聖人は納得せざるを得なかった。ニューヨーク以来、久しぶりの都会なので、内心は二人で一緒に遊びに出かけたかったのだが。・・・
するとメリッサがぼんやりと目を覚まし、周辺を見て不意に心細そうな顔付きになった。聖人は安心するようにと、そんな少女の手をしっかりと握った。メリッサは二人の日本語の会話にじっと耳に傾けて、そんな二人を不可思議そうに見つめていた。
ブルーの壁紙に、ピンク色のランプシェイド。ツインベッドのモーテルの部屋は、ミッド・センチュリーのインテリアのちょっとスモーキーな色合わせが絵画のようだった。
聖人は風呂上がりで、ロングヘアが乾くまでの間、上体を裸にしたまま、片方のベッドに腰掛けていた。そして瓶入りのコカコーラを飲みながら、テレビで古いSFドラマの『宇宙家族ロビンソン』を見ていた。すると、その部屋のドアがノックされた。「俺だ」
英樹の言葉に、聖人が「ああ」と応えた。
聖人はベッドから立って、コーラに口を付けながらそのドアを開けた。すると、鮮やかなブルーのジャケットに白シャツでお洒落した英樹が、部屋へと入ってきて、室内の状態を見回した。
「あの娘は?」
「今は、風呂に入っているよ」
「そうか。それじゃあ、俺は出かけて来るからさ」
そう言って英樹が、気の毒そうに笑った。
聖人が諦めたように「ああ」と応えた。
「悪いな、俺一人でさ」
英樹はドアの手前で小さく頷いてみせ、軽く手を上げて、ドアを閉めきって出かけていった。テレビの古いSFドラマでは、老博士と少年がロボットを交えながら軽妙なやり取りを続けていた。
月明かりだけのバスルームは、ブルーとグリーンの柄入りのタイルがバランス良く貼られていた。メリッサはグリーンのタオルをシャンプーを終えたばかりの頭に巻き付け、お湯に浸かって、全身を汚していた汗と埃をシャボンで念入りに洗っていた。
聖人はベッドのサイドライトだけを灯して、メリッサのことなど気にしないで、愛読書である『ツァラトゥストラはかく語りき』を手に、就寝前の読書をしていた。風呂から上がってきたメリッサは、彼の真っ赤な長袖シャツをパジャマ代わりにその身に着けて、貝の風鈴がスダレのように掛かっている開けっ放しの窓辺へと立った。そうして外の静かな海沿いの風景をぼんやりと眺めていた。
聖人が小さく振り返って言った。「外気に当たるのは気持ちが良いだろうけどさ、海の夜風は体にべと付くぞ」
「構わないわよ。だってシャワーをもう一度、浴びたら良いだけだもの」
メリッサは無邪気に微笑んでみせた。メリッサは淡い神秘の月明かりを浴びていて、さっきまでいたみすぼらしい少女とはまるで別人のようだった。
聖人はそんな彼女を見て、何となく上体を起こした。痩せ形で少年のような体型をしているが、メリッサは小さな胸の膨らみと、すっきりと伸びた細い首筋と、シャツから透けてみえる滑らかな腰のラインが際立ってか美しかった。明るいブラウンのストレートの髪もシルクの糸のように月の光に繊細に輝いてみえている。
シャワーを浴びて身綺麗になったせいなのか、彼女は柔らかい薄膜のような透明感を称えて、整った顔立ちが奇妙に大人びて感じられていた。
聖人はそんな彼女に見惚れてしまって、少しの間、茫然と言葉を失った。聖人が我に帰って、思い出したように言った。
「今夜のところは俺のシャツで間に合わせたけど、明日になったら何か洋服を買いに行こう。あの服じゃ、あんまりだからさ」
メリッサが微笑んで「うん。ありがとう」と応えた。
かすかな海風に、窓辺の風鈴が軽く鳴り響いて聞こえていた。メリッサは幾つもの風鈴が揺れ動いて響いている窓辺へとたたずんでいた。そして心から優しいと思える聖人を見つめて、清楚でいて魅惑的に微笑んでみせた。
英樹はタクシーに乗って、ダウンタウンを北上していって、モダンな高層ビル群が建ち並んでみえるタウンスクエアでマッカーサー・コーズウェイに乗った。そうして街の最東端の縦長の島であるマイアミ・ビーチへと渡って、観光で有名な、島の東岸にあたるオーシャン・ドライブでそのタクシーを降りた。
英樹はまずは、アール・デコ調の建物が並んで華やかな、歴史地区であるラパス・パークにやって来た。この地区はオーシャン・ドライブでも一番の繁華街で、深夜になっても雑多な人々で賑わっている。東には大西洋を臨んだラパス・パークが横たわり、西側には当時の姿をそのままにカラフルな建物が並んでいて、ミッド・センチュリーのデザインが印象的な原色のネオンサインが色鮮やかに人々を誘惑している。
それに何より、思いおもいにセクシーなサマードレスで身を飾ったストリートガールたちが、気前の良さそうな男たちを物色して、品を作って界隈を行き交っている。
英樹はひとりニヤけて、そんな女たちを品定めしながらオーシャン・ドライブを歩いていた。そうしてのんびりと通りを南北に歩き、もう一度、ラパス・パークの真ん中へと戻ってきた。
ホテルの一階のプールサイドにある人々で賑わったクレーブランダーのバーでは、ドイツ系らしいブロンドの巻き毛の女が海に向かったテーブルに着いていて、グラスの冷えた白ワインをゆったりと味わっていた。
女は通りにいる物欲しそうな英樹を見付けて、意味深な目付きになって彼の行動を観察していた。男は近くを通りかかってゆく女たちに目をやって、どれにするかを決めかねている様子だ。
女は豊かな胸をわざと見せつけるベルサーチの柄物のビスチェを身に着けていて、魅惑的に笑みを浮かべると、席を立って、そんなバーから歩き出していった。女は値踏みをしながら英樹の横顔を見つめた。そして小さく頷くと、クラッチバッグからメンソールのタバコを取り出して、彼の背後に近付いていって話しかけた。
「ねえ、あなた。ちょっと火を貸してくれない?」
甘えるような女の言葉に、英樹が振り返った。そして、そこに立つ「プレイボーイ」のグラビアから抜け出てきたような美女を見付けて、明かりが灯ったような顔付きになった。
「悪いが、俺は吸わないんだよ」
「あら、そうなの。それじゃあ、仕方が無いわね」
女は作り笑いを浮かべて、さっさとクラッチバッグから自前のライターを取り出して、くわえたタバコに火を点けた。それから男へと尋ねた。「あなたは誰か探しているの?一人じゃ夜はつまらないものね。・・・ねえ、誰か遊び相手が欲しいんじゃないの?」
「ああ。まあね。そんなところだ。・・・君、名前は?」
「ウタよ。ウタ・エッフェンバーグ」
「ウタか。ドイツ系なのか。良い名前だな」
ウタは微笑んで頷いてみせ、思わせぶりに言った。
「それよりさ。あなた、パートナーが欲しいのなら、早く選ばないと朝になっちゃうわよ。どうかしら?私で良ければ遊んでみる?きっと満足させてあげられると思うけど」
これがアメリカだ。誰にだって可能性はある。やりたい事は何だってやれる。これこそが、開拓者たちが集まって作りあげてきた理想郷の姿だ。英樹は愉快に思って呆れたように言った。
「アメリカの物質文明ってやつは、まったく粋な夢を見せてくれる。良いね。君に決めようか」
「良いかしら?私は200ドルからになるけど。その手の相場は分かっているのよね?」
「一応ね。勉強だけはして来た」
ウタは満足に思って顎を上げ、足元に放り捨てた吸いかけのタバコを、パンプスの靴底で簡単に踏み消した。「商談成立ね。あなた、ツイているわよ。きっと後になってそう思うから。それじゃあ、車があるから私に付いてきて。駐車場代は、あなたが払ってね」




