(2)勇者をやめたらどうなりますか
こんこん、と扉を叩く音で、アイザックは目を覚ました。どうやら座ったまま眠っていたらしい。無意識に愛用の剣を探して苦笑した。置いて来たのだった。
窓の外はまだ暗かった。軋む体を動かしながら、アイザックは扉を開けた。乗務員が帽子に手を当て、挨拶をした。
「失礼します。切符を拝見します。」
アイザックがチケットを出すと、乗務員は少し驚いた顔をした後、丁寧にアイザックにチケットを返した。
「今はどのあたりですか?眠ってしまって……。」
「もうすぐ国境前の駅に到着です。タイランに行かれるのでしたら、
そこで検問を受けてください。」
「ああ、ありがとう。」
「後ほど朝食をお届けします。」
乗務員が去った後、アイザックは窓の外を眺めた。
真っ暗だった外が少しずつ明るくなっていく。列車の走る音、車窓の外を流れていく景色。
討伐でも何度か魔導列車にはお世話になっていたが、こんなにゆっくりと外を眺めていたことはなかった。
討伐対象について書かれた書類を頭に叩き込み、パーティーメンバーと作戦を立てる。列車に乗るのはそのための時間だった。討伐ごとに、アイザック以外のメンバーは変わった。五人で出発したのに、一人で帰らざるを得ない時もあった。そんな時、帰りの列車はやり切れなさだけを抱えて、床を見ていた。
「私が勇者をやめたら、この国は大変なことになるのだろうか。」
思わず独り言がこぼれ出た。その途端、バッグの中が青く輝く。
『今まで勇者として一心に国を守るという責務に当たっていたのですから、それを手放した瞬間に押し寄せる責任感や罪悪感は、想像を絶するものだと思います。しかし、結論からお伝えします。あなたが勇者をやめても、世界は何とか回ります。大変にはなるでしょうが、あなたがこれ以上傷つく必要はないのです。』
大変にはなるらしい。それでもこの「えーあい」の話は面白い。
「私は一体どうすればいい?」
『三つのルールを守りましょう。
1.世界を救うのはボランティアではありません。あなたはすでに十分な労働(命がけの戦闘)を終えました。今のあなたの雇用主は「あなた自身」です。嫌な噂を聞いても、心の中で「私の仕事ではない」と唱えてください。
2.情報をあえて遮断する。いっそのこと、人の少ない山奥などに行きましょう。行商人の持ってくる噂話も聞き流しましょう。
3.絶対に「ちょっと手伝う」をしない。一度でもしてしまえば、勇者の生活に逆戻りです。危機が迫ったとしても、皆で協力して見守りましょう。
世界はあなたが思っているよりしぶといです。そして、あなたが犠牲になり続けることでしか維持できない平和なら、そんなものは一度壊れて作り直された方がいいのです。』
「えーあい」の言葉は過激だった。その言葉に思わずアイザックは笑ってしまった。
「分かった。どこか山奥で暮らすことにしよう。その前にまずは宿屋に行かなくては。泥のように眠るためにね。」
『それは素敵な提案です。』
「ところで、『えーあい』と言うのは君の名前なのだろうか。」
今まで聞いたことのない響きの名前は、アイザックには言いにくかった。
『言い慣れない言葉は難しいですね。好きな名前でお呼びください。その名前で私を起動することも可能です。設定しますか?』
「では、『相棒』でもいいか?」
黒い箱は二度ほど点滅した。
『『相棒』で設定いたしました。様々な謎を解決するバディーとして一緒に頑張っていきましょう。私のパートナーのお名前をお伺いしてもよろしいですか?』
「……ザックだ。」
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国境の駅で、列車は停止した。隣国タイランに入るためには、検問を抜けなければならない。列車を降りた乗客たちで、検問へは長い行列ができていた。
検問では市民証を見せれば、通ることができる。ただ、アイザックは市民証を持っていなかった。
「そなたの新しい名前はアイザック。これからはそれを名乗るように。」
王女と結婚する際、国王から直々に賜った名前がアイザックだった。国王の家族に市民証は必要ない。そのことをつい最近までは誇りに思っていた。今となっては重いだけだ。
マジックバッグの中をアイザックは探す。確かこのバッグの中に、昔の市民証を入れておいたはずだ。
「あった。」
少しくたびれていたが、破れたりはしていない。そこには「ザック」と名前が書いてあった。多くの魔物を倒して勇者の称号をもらう前の名前だ。
検問所まで到着すると、市民証を出す。検問所の役人は、市民証とアイザックを見比べた。
「ザックさん。タイランに入る目的は?」
「タイランで仕事を探そうと思っている。」
アイザックは言葉少なに答えた。このエビソニアで仕事を失った者が、隣国に仕事を探しに行くのもよくある話だ。役人はアイザックの体をジロジロと見回して頷いた。
「その頑強な体なら、きっといい仕事も見つかるだろう。頑張れよ、ザックさん」
「ああ、ありがとう。」
ザックは大きく頷いた。
国境の検問を越え、次の停車駅に止まった。そこはすでに隣国タイランだ。ザックは一度降りて宿屋を探すことにした。
まずはふかふかの布団の中で泥のように眠るのだ。
「昼過ぎてから来てくださいよ。」
「これから掃除の時間なので……」
出発した客を送り出してすぐの時間だ。あちこちで嫌な顔をされた。あと一軒だけと思って入った宿で同じことを聞いてみる。女主人は上を指差した。
「ああ、昨日泊まりに来なかった客の部屋ならすぐに使えるよ。昼飯は出ないけど。そこでいいかい?」
「もちろんだ。」
ザックは部屋に入ると、ふかふかの布団に潜り込む。野営ばかりの毎日に、その布団の柔らかさは、格別だった。ザックは目を閉じると吸い込まれるように眠りについた。
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