32.第5話後日譚➁ 蜂蜜菓子をまだ食べたい
蜂蜜菓子が一枚、三日間なくならなかった。
砕いた胡桃と香ばしい種を蜂蜜で固め、薄い菱形に切った物である。ヴェロニカの机に置かれた紙箱の中で、最後の一枚だけが毎朝同じ場所へ戻されていた。
食べ忘れたとは考えにくい。
ヴェロニカは食事の時間を忘れても、蜂蜜菓子の残り枚数は忘れない。
「食べないの?」
四日目の朝、私は訊いた。
ヴェロニカは依頼書から顔を上げずに答えた。
「保存状態を観察しているのよ」
「毎晩、箱を開けてるでしょう」
羽根ペンが止まった。
「どうしてそう思うの?」
「菓子を包んでいた薄紙の折り目が変わってる。昨日は右が上だったけど、今日は左が上」
「風かもしれないわ」
「蓋のある箱の中で?」
「局地的な風よ」
「それと、菓子の向きも変わってる」
「自力で動いた可能性は?」
「それなら事件にしてもいいよ」
ヴェロニカはようやく顔を上げた。
「相談料は?」
「自分で払って」
「身内から金を取るの?」
「依頼人の資産に比例するんでしょう」
「共同調査人が経営方針を悪用しているわ」
窓の外の看板には、その経営方針が今日も堂々と掲げられている。
私は紙箱を取り上げた。
「最後の一枚だけ残してる理由は?」
「食べたくないからではないわ」
「それは見ればわかる」
菓子の端には、ごく小さな欠けがあった。表面にも、爪で押したような跡が幾つか残っている。
ヴェロニカは毎晩これを手に取り、食べるかどうか迷ってから戻していたらしい。
「いつもの店、閉まってたね」
三日前、武具組合から帰る途中で見た。
蜂蜜菓子を売っている店の扉には札が下がり、店主が北の町へ出かけるため、ひと月ほど休むと書かれていた。
「ひと月よ」
ヴェロニカが言った。
「長いわ」
「別の店で買えば?」
「蜂蜜が違う」
「食べてもいないのに?」
「匂いでわかるわ」
「それ、私の仕事みたいに言わないで」
私は最後の一枚を光へ透かした。
蜂蜜は濃い琥珀色で、砕いた胡桃のほかに、白胡麻と細長い種が混じっている。厚さは指の半分ほど。表面には煮詰めたときの細かな泡が残っていた。
「作ってみる?」
「何を?」
「これ」
ヴェロニカは私と蜂蜜菓子を交互に見た。
「菓子を作った経験は?」
「鍋なら直せる」
「質問への答えになっていないわ」
「ヴェロニカは?」
「食べる側の専門家よ」
「じゃあ、味の判定をお願い」
「重要な役目ね」
「つまみ食いは禁止」
「役目を奪うつもり?」
* * *
一度目は、蜂蜜を煮詰める時間が足りなかった。菓子は固まらず、皿の上でゆっくり広がった。
「柔らかいわね」
ヴェロニカが匙ですくった。
「食べないで。失敗の原因を調べるから」
「証拠は保存しなければ傷むでしょう」
「いま食べたら、保存もできないよ」
二度目は火が強すぎた。鍋から上げた蜂蜜は濃い茶色になり、胡桃まで苦くなっている。
「これはこれで、新しい味よ」
「焦げてる」
「苦味のある大人向け蜂蜜菓子」
「失敗を商品名で隠さないで」
三度目は胡桃を増やしすぎた。切ろうとすると崩れ、菱形ではなく瓦礫になる。ヴェロニカは小さな欠片を拾い、口へ入れた。
「いまのは証拠隠滅でしょう」
「床へ落ちる前に保護したのよ」
「机の上だったけど」
「机も床の一部と考えられるわ」
「考えないで」
私は残った蜂蜜を量り、鍋の底へついた跡を見た。
次は火を弱める時機を変え、最後に塩をひとつまみ加えることにした。種も最初から混ぜず、胡桃へ熱が通ってから加えた方が香りを残せるはずだった。
「次は成功しそう?」
「たぶん」
「名探偵として補足すると、三回失敗した人間の『たぶん』は信頼性が低いわ」
「三回とも食べた人に言われたくない」
「毒見よ」
「私も食べたでしょう」
「共同調査ね」
四度目の蜂蜜が鍋の中でゆっくり濃くなるのを待ち、胡桃を落とした。火を止める直前に種を混ぜ、塩をひとつまみ加えて、油を薄く塗った板へ広げる。
ヴェロニカが定規を持ってきた。
「何をしてるの?」
「厚さを揃えるのよ。食感に影響するでしょう」
「そこは急に真面目なんだ」
「蜂蜜菓子の話だもの」
ヴェロニカに板を押さえてもらい、私は温かいうちにへらの背で薄く伸ばした。冷えてから刃を入れると、最初の一枚は菱形になった。次は端が少し欠けたものの、崩れずに板から外せる。
その横から、ヴェロニカが定規で新しい線を引いた。大きさを揃えるつもりだったらしいが、途中から線が交差し、そこに合わせて切った残りは形がばらばらになった。
「均等にしようとしたのよ」
「増えた線の分だけ不均等になってる」
「量に差があっても、選ぶ順番を決めれば公平になるわ」
「ヴェロニカが最初に選ぶんでしょう」
「作業への貢献度を考えれば当然よ」
私は新しい菓子を一枚割り、乾いた音を聞いてから片方をヴェロニカへ渡した。自分の分を口へ運ぶと、歯ざわりは店の物より少し軽く、胡桃の粒も大きい。それでも蜂蜜の香りは残り、噛めば種が小さく弾けた。
「どう?」
ヴェロニカは目を閉じて味わっていた。
「同じではないわ」
「やっぱり?」
「胡桃が大きい。蜂蜜も少し薄い。塩は、もうほんの少し多くていい」
「失敗?」
「いいえ」
彼女はもう一つ手を伸ばした。
「これはこれで、かなり優秀よ」
「じゃあ、最後の一枚も食べられるね」
机の端に置いていた紙箱を差し出した。
ヴェロニカは蓋を開き、三日間残していた蜂蜜菓子を取り出した。それでもすぐには口へ運ばず、紙箱の上で持っている。
「まだ何か調べるの?」
「最後の一枚でしょう」
「新しいのがあるよ」
「同じ物ではないわ」
「店が開いたら、また買える」
「ひと月後よ」
「それまで、いま作ったのを食べればいいでしょう」
「そういう話ではないの」
ヴェロニカが菓子の中央へ親指を当てると、硬い音とともに二つに割れた。片方が少し大きく、きれいな半分ではない。彼女はそちらを私へ差し出した。
「ヴェロニカが食べたかったんでしょう」




