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私、先輩を見損ないました。

       *


 結局、荒井が部室を飛び出して十分も経たないうちに賀田川と英輔が帰ってしまい、俺とモコも暗室で現像作業を再開したがあまり集中できず早々に下校することにした。

 あんな空気になったんじゃ、無理もないか……。

 部室棟から出ると、まだ陸上部やテニス部が部活動の真っ最中だった。この学校は部活動に力を入れているから、四時を過ぎたばかりの今頃に帰宅するやつなんてあまりいない。まあいつもの俺とモコみたいに八時近くまで学校に居残ってるやつもほとんどいないけど。

 とにかく――

 俺は小さく溜息をつく。

 こんなに早く帰るのは久しぶりだな。

 校門まで歩いてからふと校舎を振り返った。青空をバックにして陽光を一身に浴びながら学校は俺を見下ろしている。

 ここに来るのも、あと十日か。

「先輩、大丈夫ですか? 体の調子でも悪いのでは?」

 モコが声をかけてきた。

 俺はモコと一緒にいたことをすっかり失念して自分の世界にどっぷり浸かっていたみたいだ。駄目だなこんなんじゃ……。気がつけば残りの時間ばかり気にしちまってるし。

 よく考えてみたら、残りの時間を気にしている時間が勿体無いじゃないか。

 俺とモコは学校を後にし、いつもの帰宅ルートを歩き出す。

 いつもは店の有線放送のごとくひたすら喋っているモコも、さすがに今日は黙っている。俺としてはモコとこうして一緒に帰るのも残り少ないわけだから、いつも通りの雰囲気の中で帰りたいんだけど。

 ったく、荒井のやつ。

 俺たちは無言で歩き続け、国道に突き当たった。いつも別れる場所。

 いつもって何だろ。

 もうすぐいつもがいつもでなくなる。

 いつもが、何もかもが無くなる。

 俺も、無くなる。

 ――って、だからこんなこと考えてんじゃねえよ。

「私、先輩を見損ないました」

「あ?」

 唐突過ぎるモコの発言に、俺は口をぽかんと開けた間抜け面で反応してしまった。

「――見損なったって、意味分からないぞ」

「部長のことです」

「荒井?」

「そうです。先ほどのあの言い争い、ただ事ではないと思ってずっと聞いてしまいましたが、なんてことはありませんでした。先輩が全面的に間違っていただけです」

「俺が間違ってる? 何も知らないお前がどうしてそんなこと言えるんだ?」

 そう、モコは見事なまでに何も知らない。

 もしかすると、賀田川と英輔はLSX70絡みのことだと気付いたかもしれないが。

「詳しい事情は分かりかねます。しかしですね、部長と先輩の言い合いだけ聞けば、どちらが間違っているかぐらい分かります」

「それ、いつものボケなのか? だとしたら悪いけど突っ込みどころ満載だぜ」

「突っ込ませません。そもそもボケじゃありませんから」

 モコは俺を見上げたまま言った。

 いや、これはいつものこと。俺とこいつの身長差ではこの位置関係になってしまうのは当たり前だ。でも何だろう。見上げられているのにまるでこっちが見上げているような、そんな力強い視線をモコは送っている。

 俺はそれをまともに受けてたじろいだ。

「先輩は今を生きる今を生きるとやたらと主張していますが、では部長はどうなんでしょうか。部長は今を生きているのでしょうか」

「生きてんじゃねえの」

「いいえ、そうは思えません。部長は先輩のことをずっと心配しています。先輩がぶらぶら旅している間も、先輩のことを気に病んでいました。今を生きるどころではないのです」

「なんでそんなことがお前なんかに分かるんだよ」

「見ていれば分かります。そんなことも分からないのはお子ちゃまです」

「モコに言われたか――」

「他人の今を奪い、自分だけ今を生きる。それは如何なものでしょうか」

 モコは俺の言葉を遮るようにして、静かに言った。

「…………」

「そもそも、今を生きるというのはどういうことなのでしょうか。先輩がやっていることは、『今を好き勝手生きる』の間違いではないのですか?」

「…………」

「今は未来に直接繋がっているのです。未来もいずれは今になります。先輩の行為は、未来を、いずれ来る今をないがしろにした愚業に過ぎません」

「……未来が無いとしたら?」

「はい?」

「例えばの話、自分がいつ死ぬか分かっていたとしたらどうだ? そう遠くない将来、自分が死ぬ。それを知ってしまったら、誰でも俺みたいに自分のやりたいことをやりきろうって気持ちにならないか? それが運命だとしたら――」

「とんだチキン野郎ですね、先輩は」

「え」

「重ね重ね見損ないました。運命ですって? 何を言うかと思えば。不治の病にかかったわけでもあるまいに。いったい何を恐れているんだか」

「…………」

「仮に不治の病にかかったとしても、運命なんてものに翻弄されるなんて馬鹿げています」

「いや……なんて言えばいいんだろな。……そう、例えば死ぬことが決まっていたとしたら――」

「分かっているのも決まっているのも同じようなものです。そして決まっていることなどありません。何を決めるにしても、それはご自分で選択なさった結果です。運命に流されるのも、運命に抗うのも、それはやはりご自分で選び取ることなのです。そのよく分からない例え話の場合なら、『死ぬことが決まっている』のではなく、『死ぬことが決まっていると決めた』ということなのですよ」

「おめえはやっぱ分かってねえわ。おめえだけじゃない。荒井もそうだ」

「どういうことでしょうか?」

「先が……死期が分かってたほうが俺はいいんだよ。自分の寿命を逆算して考えて、生き方が決められるからな。もし人生がまだまだ続くようならそれなりにちゃんとした生き方しなきゃならないし、もし短ければやりたいことをやりまくる」

「それはつまり、先輩はご自分で『死ぬことが決まっていると決めた』と仰るのですか」

「そういうことだ」

「やれやれ」

「んだよ」

「先輩、本気で言っているのですか?」

「本気だ」

「やりたいことが山ほどあるのではないのですか?」

「そりゃあるさ」

「先輩を見ていると、それは膨大な容量で、仮に人生が八十年だったとしてもやり切れるとは思えないほどの量だとお見受けするのですが」

「そ、そうだな」

「だとすると、どのみち先輩はやりたいことをやり切ることなどできないのです。もちろん私だってそうです。皆そうです。でも、だからこそ皆さん、精一杯生きているのではないのですか? 先輩だってそうでしょう? なのにどうして近々死んでしまうようなことを自分で決めてしまうのですか? 理解できません」

「そ、それは……」

「先輩はいつも仰っていましたね。『世界はおもしれーもんで溢れてるぜ』と。私、その言葉が大好きです。ですが、肝心の先輩が世界に見切りをつけているようでは、せっかくの素敵な言葉もかすんでしまいます」

「…………」

「先輩、これ以上私を失望させないでください」

 視界が揺らぎ、目の前のモコの顔がまるで水中で眺めているようだ。

 そして地面に一滴、また一滴と何かの雫が落ちて、地面に小さな染みを作った。

「……うっぐ……うぅ……」

 やりたいことをやり切れないことぐらい分かってる。

 俺の人生が十日後ではなく日本人の平均寿命程度まで続いたとしても、おそらく、いや間違いなく無理だろう。

 ああ、分かってるよそんなこと。

 だから、俺は自分の死期が分かっていたほうがいいと、そう思った。やりたいことを絞り込めるから。

 そう思ったのに――

 なんだよ――これ。

 終わりが見えた途端、世界がすげぇちっぽけに見えるぞ。

「まったく、先輩はお子ちゃまですね。周りにこれだけ心配かけさせるなんて」

「……うっ……うっ……っ」

「先輩と部長に何があったかは私は知りません。ですが、これだけは言えます」

「…………」

「諦めないでください」


 いつの間にモコは歩き出したのか、やつは俺の視界から消え、少し向こうを歩いていた。自分の家に向かって。

 モコの背中が徐々に小さくなっていく。 

「……ちくしょう。言いたい放題言いやがって」

 お子ちゃまめ。

 俺は潤んだままの目を腕でごしごしと乱暴に拭った。「おーいっ、モコ!」

 歩いていたモコが立ち止まり、振り向く。

「今度お子様ランチおごってやるぜ!」

 俺がそう言うと、モコはニヒッと笑った。

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