スタンダードな生き方、けれどそれは。
プリント作業中のため、暗室の中は感光しないように電気が消され、赤い照明がついている。血の海のような赤が狭い暗室を飲み込む。通り魔の野郎に殺された人たちも、こんな色の血を流したのだろうか。
――駄目だ。集中できない。
俺は写真を二枚だけプリントして今日の暗室作業を終わりにし、椅子に座って考え事に集中することにした。
「先輩、今日はもうプリントしないのですか?」
モコが訊いてきた。
今日も今日とて俺はモコと一緒に暗室にこもっている。
モコはかなりの量をプリントするらしく、印画紙の束が机の上にスタンバっている。
「ああ。今日はもうやめとく。ちょっと色々考えたいことがあってな」
「考え事、ですか。さては先輩、恋の悩みを抱えていますね」
「ぜってー言うと思った……」
「先輩はついてますね。この私、恋のカウンセラーの異名を取る井戸未田モコがすぐ近くにいるのですから」
「お昼寝お子ちゃま女子高生の異名の間違いじゃねえのか」
「失敬な。で、その恋の悩みとやらをお聞かせください」
「だから恋なんかじゃねえって」
「ああなるほど、テストで赤点取っちゃったんですか。それはちょっと私に相談されても困りますね」
「赤点のことでもないって。つうか赤点なんか取ったことないしな」
「先輩って見かけによらず頭良いですよね。テストの成績だっていつも学年ベスト10に入っていますし。なんというか、釈然としません」
「ふっ、俺は日ごろからしっかり勉強も怠らずに部活に励んでいるのさ。写真と昼寝のことしか考えていないどこかのお子ちゃまとは違う」
「いるんですよね、そういうお気楽なお子ちゃまって」
「…………」
「先輩、何絶句してるんですか」
「おっと、こいつは失礼した。あまりにも自分のことが見えていないどんぐり頭が身近にいたもんでつい言葉を失ったのだ」
「うぅ、重ね重ね失礼な先輩ですね」
「おめえに言われたかない」
「それにしても先輩はいいですね。あれだけ成績がいいのですから、大学受験など楽勝ではないですか」
「あ、ああ……そうだな」
俺はへらへらと笑った。笑いがぎこちなくなっていなければいいけど……。
正直言って、大学受験をするかどうかすら分からない。慎重な生き方を選ぶなら大学受験は絶対にやるべきだとは思うけど。
大学進学、卒業、就職。
スタンダードな生き方だ。慎重で賢くて堅実で。人生を八十年と考えると、あまり大胆な行動に出るのは危険だ。人生ゲームじゃないのだから。
けれど、それは俺の望む道ではない。やりたいことはほかにあるんだ。
世界はおもしれーもんで溢れている。
どうするべきか――
通り魔の姿が頭の中をよぎった。通り魔が両手に持っていた二本のナイフ、コートの内側全てを覆うように仕込まれた無数のナイフ。
もしあれで一突きにされて殺されたら、大学受験も何もあったもんじゃない。スタンダードな生き方が聞いて呆れる。
ふとモコのほうに目をやる。
モコはプリント作業に集中し始めたのか、俺との会話など無かったかのように真剣な表情を浮かべている。
モコは何も知らない。
モコ以外の写真部の部員たちがナイフを持った通り魔に遭遇したことも、寿命が分かってしまうLSX70なんてカメラで大変なことになったことも。
結局あのとき、俺たちは警察に通報しなかった。というか、完全に失念していた。
LSX70の衝撃があまりにも強かったから。
たぶん、賀田川と英輔が受けたショックは俺よりも遥かに上だったと思う。自分がその日死ぬことになっていたのだから。
だが、あれから一週間経った今でも二人とも生きている。
いったいどういうことなのか。
荒井に言わせると、俺と荒井の取った行動が二人の寿命を延ばしたという。
俺と荒井の行動――賀田川と英輔のデートを尾行し、通り魔の犯行を邪魔した。つまり二人を守った。それはLSX70で二人の寿命が分かっていた荒井だからこそ成しえたわけで、もしその情報が無ければ賀田川と英輔は……。
全ては荒井のおかげなのだろう。
後で聞いた話だが、荒井がなぜ賀田川と英輔のデートの時間や場所を知っていたのかというと、デートの日から数えて二日前、つまりLSX70で英輔たちが自分らの写真を撮って荒井が大騒ぎしたあの日から、荒井は英輔たちの行動を影で徹底的にマークしていたという。その際、隙を見て賀田川のスクールバッグから手帳を抜き取り死ぬ日の予定がどうなっているのかを確認したとのこと。
二人が同じ寿命なら、二人一緒に行動している時間帯があるはずだと踏んだのだ。そしてその推測は的中した。
……恐ろしいことこの上ない。
通り魔だけじゃなく、この町には荒井という影も忍び寄る。くれぐれも背後には注意しよう。
――冗談はさておき。
俺は直接見ていないが、賀田川と英輔が写った写真の『2』という表示が変わったのだそうだ。もっと大きな数値、日本人の平均ぐらいに。実際二人が今も生きていることから、それは事実なのだろう。
でも、二人が生きていることで、LSX70の寿命を示す機能の真実味が薄くなっているのもまた事実。本当はただのポラロイドカメラなんじゃねえの? と疑ってしまう。
いや、もちろん賀田川と英輔が生きていてくれて嬉しいぞ。
大体……。
大体荒井はどうしてLSX70で撮った写真に浮かんだ数字が寿命だと知っているんだ?
……愚問か。
決まっている。過去に何かあったんだ。LSX70が関わった何かが。荒井はその経験によって、LSX70のことを、その恐ろしさを知っていたんだ。
まあ、全部俺の推測だけど。そうそう決まっていることなんてありゃしない。何もかも決まってたら、もっと色々なことが楽なはずだ。
そう、楽なはずなんだ。
そもそも、あのナイフの男が通り魔かどうかだって決まったわけじゃない。ヤツは見るからに怪しかったしナイフマニアのごとくたくさんのナイフを装備していたけど、自ら通り魔だって名乗ったわけじゃない。何も証拠はないんだ。
はぁ……結局何も分かんねー。
LSX70のことも、通り魔のことも、自分自身のことさえも……。
ちくしょう、なんで大学受験のことからここまで考えちまったんだ。
「そういえばですね」
モコが何の前振りもなく話し始めた。「私最近、めきめきと上達しているのですよ」
「そうか。そりゃよかったな。じゃんじゃん良い写真撮って何かの賞でも取っちまってくれ」
俺は投げやりに言った。
「先輩、私が言っているのは写真のことじゃありません」
「あ? じゃあ何だよ」
「剣玉です」
「…………」
「ちゃんと空気をお読みになれば、話の流れでどなたでも分かることです」
「誰も分かんねえよ」
「それはともかくですね、私、達人と言っても差し支えないほどに剣玉が――」
「わーったわーった。すんげえすんげえ。凄いでちゅねー」
「……私はお子ちゃまなどではありません」




