第59話:平和な領地を蝕む『笑顔の悪魔』
商人の街を離れ、主要街道を歩き続けること数日。俺はついに目的地であるオータム男爵領へとたどり着いた。
辺境に位置するその領地は、一言で言えばのどかな田舎だった。冒険者ギルドの支部すら存在しない、高層の建物もない、どこまでも牧歌的で平和な街並みが広がっている。
ギルドがないということは、身分証の提示を求められる入領の検問が厳しくなるリスクを意味していた。だが、ここでセキアから託された『鉄華の灯』のクランバッジが絶大な効果を発揮した。検問の役人は、中規模クランの公式な紋章を見るなり態度を一変させ、怪しむ素振りもなくすんなりと俺を通したのだ。改めてセキアの深い配慮に心から感謝する。
俺は入領するや否や、街の中心部にある一番賑わっている酒場へと潜入した。前世のドブ板営業で培った「周囲の会話に自然に耳を傾ける」スキルを全開にし、まずはこの男爵領の現状を精査していく。
酒場の喧騒から拾い集めた情報は、不穏な歪みを示していた。
昨年、前男爵が急死したため、現在はその奥方である未亡人が暫定で領地を納めているらしい。そして、街を揺るがしている最大の噂は、近々その未亡人が「養子」を迎えるという話だった。血縁関係の薄い養子縁組のため、前男爵の親戚筋や周辺の有力貴族たちから猛烈な反対があったそうだが、なぜか未亡人が頑なにそれを押し切り、強行突破の形で次期領主への継承が内定したのだという。
「……話が繋がりすぎるな」
ホーリーの自白が脳裏をよぎる。だが、噂話だけではエビデンスとしては弱い。俺は、かつて貴族の子供を助けた際に手に入れた、もともと持っていた大切な礼金――この決戦のために切り札として残しておいた軍資金を投入し、男爵家の末端役人や事情通の男を裏路地へ連れ込んで、その「養子」の人相を徹底的に洗うことにした。
「ああ、あの養子様かい? 外面は爽やかで人当たりが良くてね、未亡人様への印象はすこぶる良いんだ。だが……どうにも掴みどころがないというか、目が笑っていないんだよ。裏に回ると、いつもニタニタと気味の悪い笑みを浮かべていて、何を考えているか分からねえ男さ」
金を握らされた役人の証言を聞き、俺の確信は100%のファクトへと変わった。
間違いない。ケイジだ。あいつはかつてソイを『お気持ちハック』で操ったように、今度は本物の貴族の未亡人を騙し、合法的に男爵領そのものを乗っ取る寸前までスキームを進めていたのだ。
次に俺は、セキアのクランを抜けてホーリーについていったという2名の元メンバー――大盾を持った気が小さい重戦士と、小柄な短剣使いの動向を探った。しかし、こちらは巧妙に隠蔽されているのか、決定的な足取りを掴むことができなかった。酒場で「それっぽい奴らを見たことがある気がする」という薄い証言こそ得られたものの、どこを拠点に動いているのか、確証は一切得られない。
正式な証拠を掴み、ケイジの現在地を突き止めてからの数日間、俺はかつてない高い壁の前に立ち尽くすことになった。
「――意外と、簡単に手の届かない場所にいやがる……」
宿屋の薄暗い一室で、俺は新調した黒漆の鞘をそっと撫でながら、手詰まりの焦燥感に歯噛みしていた。
相手は間もなく「男爵家の養子」となり、絶対的な権力を手に入れる立場だ。ギルド支部すら存在しないこの閉鎖的な領地において、一介の野良冒険者が男爵家の次期領主に近づくことすら、防衛システム的に不可能だった。力ずくで屋敷に乗り込めば、それこそ国家反逆のテロリストとして、ケイジが裏で抱えているという教団や貴族の闇の力によって、音もなく処理されて終わりだ。
完璧な防具を揃え、無実も証明した。それなのに、あと一歩のところで、ケイジは俺の剣も、ギルドの法すらも届かない雲の上の世界へ逃げ込もうとしている。
どうやってあいつを引きずり下ろすか。どれだけ思案を巡らせても、ブラック企業で鍛えた脳細胞をフル回転させても、現状のカードでは有効なハック手順が見つからない。
何もできないまま、ただ無駄に時間だけが流れていく。焦りと無力感だけが胸を焦がし、俺は手詰まりのまま、男爵領の宿屋で無為な数日間を過ごすことしかできなかった。
59話 完




