【閑話】「地上の星と、不条理な懐中時計」
風の中のすばる。砂の中の銀河。
誰もが皆、己の限界という名の『崖』の淵で、泥臭いやせ我慢を続けている。
この日、一人の初老の男が、誰もいない我が『初級魔力層』の通路の前に佇んでいた。
彼はこの初級ダンジョンの一角(初心者用の直線通路)に対して、人知れぬ強烈な『こだわり』があった。
男は、外の広大な草原フィールドでクエストを受注する前、必ずこの初心者用の直線区画を、一歩の歩幅も狂わせずに【全く同じペース(タイム)で3回繰り返して往復すること】を、己の冒険者人生の絶対のジンクスにしていたのだ。
無理はしない。
彼は、寄る年波による自身の体力の衰えを、そして、体のたるみを誰よりも冷徹に自覚している――と、本人は周囲に語っていた。
だからこそ、決めていた。もし、この初級ダンジョンでの往復で、コンマ1秒でも目標のペースが保てなくなったその時は、自分は冒険者人生をきっぱり諦める。そう心に誓うほど、自分の肉体を厳格に管理している自負があったのだ。
幸いなことに、今日のこの初心者区画は、ギルドの監視者の公式な巡回対象になると聞いている。
余計な魔物の乱入を気にする必要はない。だからこそ、今日もいつもと同じタイムが出せるはずだった。
男は服の合間から、年季の入った銀の懐中時計を取り出した。
懐中時計の秒針の針が、文字盤の一番上、12時の位置へとピタリと重なった、その瞬間――。
「スタートだ……!」
男の筋肉が、静かに駆動した。
1回目。男の足腰は、長年のメモリを完璧に同期させ、いつも通りの、1ミリの誤差もない完璧な目標タイムを弾き出した。まだ、やれる。俺の足は、まだ死んでいない。
そして、彼が2回目のアタックをスタートさせようとした、まさにその時のことだった。
通路の角から、突如として、公式の順番を完全に無視した不条理な影が割り込んできたのだ。
あの最高にキモおぞましい【インスマス顔(魚顔)】をこれでもかと剥き出しにした見知らぬ男が、彼の神聖なタイムアタックの進路のド真ん中で、無駄にド派手な攻撃スキルを撒き散らすと、いちいちキレッキレのうざい決めポーズをドヤ顔でかまし始めたのだ。
彼は、大人だった。
(……落ち着け。ワシは歴戦のベテランだ。まずは様子を見よう。すぐに終わるはずだ)
懐中時計を握りしめ、我慢してその奇行を見つめていた。
だが、そのインスマス顔のおじさんの決めポーズは、一向に終わる気配がなかった。
それどころか、おじさんは突然その場にガックリと両膝を床につき、心臓を抑え、血の泡を吐いてのたうち回りながら、「君は綺麗だァァァッッッ!!!❤」と、おぞましい脳筋ビブラートを響かせて大声で前世の失恋ポップスを狂信的に大熱唱し始めたのだ。
彼の脳内メモリの許容量が、爆発寸前まで急激に跳ね上がった。
通路の隅では、ギルドの監視員がこの世の終わりを見るような凄ましき嫌な顔をしているが、なぜかその大暴走を止めようとはしなかった。
――正式に、おじさんが収まり、やっと通路に誰もいなくなった、まさにその一瞬の空白。
「今だ……ッッッ!!!」
彼は懐中時計のネジを押し込み、直線通路へと飛び出した。
よし……! タイム通りだ! 完璧にいつもの秒数だ!
おじさんの地獄の大熱唱を直撃しながらも、彼の筋肉は、見事に2回目の往復を目標値のままクリアしてみせたのだ。
あと、一回……!
あと一回だけ、この懐中時計と同じタイムでこの通路を往復することができたなら、今度のあの広大な草原でのクエストもうまくいく。
そう心に固く決めて、最後の3回目をスタートした、まさにその直後だった。
「キャハハ、今日のダンジョンにぎやかだねー」
「おっ、あそこの直線通路、誰もいなくて空いてんじゃん」
通路の角から、信じられないほど暢気な声をあげた【若い冒険者のカップル】が、ヘラヘラと笑いながら彼の進路のド真ん中へと侵入してきた。
ピキィィィン、と彼の懐中時計のタイムログが、物理的に完全に崩壊した。
「……っ、また、初めからだ……!!」
男は深く、深い絶望の溜息を吐き出すと、またしても1回目からのリスタートを余儀なくされ、トホホと重い足取りでスタートラインへと強制返品された。
(次こそは……そう、今度は、地球がひっくり返ろうが誰にも邪魔をさせない……!)
彼は目を血走らせ、ギラギラとした執念のオーラを纏いながら、頑なにスタートの文字盤を凝視してその場を陣取り続けた。
そう、彼は自分の立てた絶対のルール(3回連続で同じタイムを出す)が崩されたため、「チッ、ペースが崩された。今回は運が悪かっただけだ、ジンクスが狂ったからには今週のクエスト受注はきっぱり諦めて、来週に延期だ」と、どこまでも自分勝手で面倒くさいマイルールを脳内で更新していたのだ。
そうやって何かと言い訳をしては延期ばかりを繰り返しているから、余計に彼の体はたるんでいくというのに、本人はその残酷な現実を頑なに認めていないだけの、往年の栄光にしがみつく【ただの諦めが悪いだけの怪異】。それが彼の真実のグラフィックだった。本当に最高にめんどくさい奴だった。
だが、彼がそうやって我儘なジンクスのためにその場を一歩も動かずにストップしていた結果。
男の背後には、通路を完全に塞がれた初心者冒険者たちの、これまでに見たこともないほどの【最悪な大行列(大渋滞)】が、いつの間にか不気味に、ズラリと出来上がっていたのだ。
「ちょっと……なにあのおじさん、またあそこの通路詰まらせてるわよ……」
「出たよ、ウワサの『ベンピマン』でしょ……。なんのこだわりか知らないけど、たまに初級者ダンジョンに現れては1人でフリーズして通路を大渋滞させる大迷惑な冒険者ほんと消えてくれないかしら、、」
彼の背後の行列からは、若者たちの解せない冷たい目と陰口が、ヒソヒソと容赦なく照射されていた。
「本当、困るよねぇ……。最近ギルドの運営もなんかやる気がないから、ああいうお役所仕事の様子見ばっかりで、迷惑な人への注意も少なくなって本当に困るよね……」
彼本人が己の全盛期を賭けて熱くプロジェクトXしている裏で、周囲の冒険者からは「ベンピマン(便秘男)がまた通路を詰まらせている」と、最低の隠語で呼ばれている哀しき現実。
おじさんの地獄の大熱唱。
ビッチの八つ当たりキスマーク。
そして、無音で大渋滞を引き起こすベンピマン。
ギルドのコンプライアンスが表からハッキングされつつある初級者ダンジョンは、今日も今日とて、様々な不条理な「怪異(地雷プレイヤー)」たちが現れては、誰も、何一つとして幸せにならないむなしい大暴走を繰り広げているのだった――。
(閑話・完




