【第37話】「深夜の交渉と、クソ野郎の影」
「ちょっとぉ! なんでこの店の麦酒、こんなにぬるいのぉ〜!? この私を誰だと思ってんのよぉ〜!」
杯を干した瞬間、隣のソイが語尾を伸ばした下品な怒声を酒場全体に響かせた、まさにその直後だった。
ブレーキの完全にブ壊れたトラブルメーカーお嬢様の暴走は、店員へのうざ絡みだけでは到底収まらなかった。ソイはぎらついた目で周囲を見渡すと、あろうことか隣のテーブル席に座っていた、若い女性がいるグループにまで絡み始めやがったのだ。
「ちょっとねぇ、あんたもそう思うよねぇ〜!? 答えなよぉ〜、、、、、分からないのぉ~そんなことも分からないから不細工な顔してるのよ! ちなみに隣にいる、さえないのは、そのブスを今夜買ったオヤジー? ギャハハハ! うける〜」
語尾を伸ばした、あまりにも下品で直球すぎる暴言の嵐。
ソイは酒を飲んではいるが、タチの悪いことに、これは泥酔した勢いの失言などではなかった。あいつは、いつもの『素』のままで、何一つ悪びれることなく平然とこの最悪な暴言を吐き散らしているのだ。だからこそ、この馬鹿は底知れず怖かった。
突然のことに、絡まれた若い女性は恐怖とショックで返す言葉もなく、その場で完全に固まってしまっていた。当然、その隣に座っていた男が一瞬にして怒りで顔を真っ赤に染め、椅子を蹴立てて立ち上がり、こちらを殺さんばかりの勢いで睨みつけて歩み寄ってきた。
(……チッ! 始まったわ。やっぱりお目付け役がいないと、秒速でこれだよ……!)
俺はかつて破格の期間契約でコイツのお目付け役をやっていた頃の泥臭い経験則をフル稼働させ、即座に席を立って男の前に割り込んだ。そして、真っ正面から腰を低くして謝罪の言葉を並べ立てた。
「今日あの女性、すごく傷ついていて自暴自棄になって浴びるように酔っているんです! 完全に正気度を失っているんです、本当に申し訳ありません! お詫びに今夜の料金はこちらで持ちますので、すいません、すいません、、、すいません」
必死の表情を交えた、レンのブラック企業で鍛えられたお得意の謝罪の口上。
さらに俺は、歩み寄ってくる男の視線を遮りながら、店の店員の手のひらへと、自分の懐から取り出した銀貨を素早く握らせた。
「すまないが、あちらの席の人たちに、別の離れた静かな席をすぐに空けて案内してやってくれ。今夜の彼らの飲食代とお詫びの分の料金は、すべてこちらが支払う」
手際よく、絡まれる被害者の排除と揉み消しを迅速に実行する。
店員が銀貨の重みにニヤリと笑い、激怒していた男たちを上手く引き離して別の席へ案内していくのを見届け、俺は自分の席へと戻って深くため息を吐いた。
だが、俺の胸の奥は、言い知れぬ悲痛な寒さに襲われていた。
今回の遠征は、自分の装備を買いに行くだけの完全なプライベートだ。
当然、領主の依頼でも何でもないため、この揉み消しにかかった金はどこからも落ちない。財布にあるお金には明確な限度があるというのに、こんな状態のまま商人の街に着くまで、本当に俺の全財産が持つのだろうか。俺は本気で頭を抱えて絶望していた。
テーブルの向かい側では、僧侶のエリーが「まぁ、レンさん大丈夫ですか……?」と、心配そうな、どこか守ってあげたくなるような地味系清楚な表情を貼り付けて俺を見つめていた。
当然、演技だった。過去にコイツに本気で転がされそうになった俺の目は、もう誤魔化せない。
だが、俺の隣にいた、あの物静かで頼りなさそうだったD級戦士のウシオは違った。ウシオはエリーのその仮面に一瞬で骨抜きにされたようで、「エリー殿、大丈夫だ、何があってもこの私が君を守るからな!」と、男らしく胸を叩いて彼女を守る動きを見せ始めていた。ウシオの背後に漂う主語の消えた地雷化の足音に、俺は強い不安を覚えざるを得なかった。
その後、俺は暴言の嵐を撒き散らすソイの意識を、別のどうでもいい世間話へと誘導し、これ以上の延焼を防いで、なんとか今夜の席を解散させることに成功した。
だが、明日からの旅路の不安があまりにも大きすぎる。
俺は宿に戻って全員が部屋に別れた直後、エリーだけを街の暗がりの裏路地へと呼び出す手配をした。ここで線引きをはっきりさせておかなければ、商人の街にたどり着く前に俺の財布の中身が完全に尽きて飢え死にする。
夜の裏路地。地味系清楚な佇まいのまま現れたエリーに対し、俺はボロ剣を壁に立てかけ、低い声で質問をぶつけた。
「お前、今は俺がいるからいいが、普段は女性2人だけで、あのソイの言動をどうやって旅してきたんだよ?」
「あら、レンさん。そんなことを聞くために呼び出したの?」
エリーは知的で理知的な雰囲気を崩さないまま、静かにクスクスと微笑んで応えた。
「普段は2人だから、ああいう場合は私の『サイレンスの魔法』を使って、ソイの周囲に暴言や声が聞こえないように自動で対策しているわよ」
「――なら、今回も最初からその魔法を使えよ!!」
「だって、今回はレンさんがパーティーにいるから安心で、こう見えて私はあなたを信頼しているのですよ」
上目遣いのような分かりやすい媚びではない。どこまでも知的で落ち着いたトーンだからこそ、相手に「この女は心から自分を信頼してくれている」と本気で錯覚させる、エリーの底知れない男転がしの技術。
(いけない……! こうやって、今まで何度いいように転がされ、便利なお財布と道具として利用されてきたか……!)
俺は脳内メモリに警報を鳴らし、冷徹なやせ我慢でその恐怖の清楚トラップを真っ正面から踏み潰すと、次の条件を突きつけた。
「……その信頼の言葉とやらはいい。それより、今回お前の怠慢のせいでかかった揉み消し経費の分、前みたいにソイの実家にきっちり請求させてほしいんだが」
「ふふ、考えておくわ」
エリーは確約を避け、妖しく微笑むだけで話をはぐらかした。
そして俺は、最も脳内メモリの奥底に燻っていた、レン自身の過去の純然たる因縁について、声を一段と低くして問い詰めた。
「……それと、あの『クソ野郎』は、もうお前たちと一緒に行動していないのか?」
その問いに、エリーは他人事のように曖昧な返事を出した。
「さぁね? あいつは金と女の匂いがあれば、そのうちニヤニヤしながら私たちの前にも現れるかもね。でも当分は、どこかで新しい女の金づるを見つけたようだから、こっちには現れないんじゃない?」
俺はエリーの目を冷徹に見見据え、はっきりと自分の絶対のラインを言い放った。
「もし……もしあいつが、この街道の途中で一緒に行くような真似をするなら、俺はギルドの規約を破って、あの激重なペナルティを喰らってでも、お前たちとのパーティー契約を即座に別れるからな。あいつが過去に俺にした仕打ちは、お前らは知らないかもしれないが……俺は絶対に許せねえんだよ」
あの転生直後の最悪な因縁。レンを窮地に陥れた、あのろくでもない男の影。
「まぁ、当分は大丈夫だと思うけどね」
エリーは最後まで掴みどころのない態度を崩さないまま、夜闇の奥へと去っていった。
裏路地に一人残された俺は、深く、深い溜息を吐き出した。
主語をボカして地雷化しつつあるウシオ、男を道具としてしか見ていないエリー、そして、いつどこで爆発するか分からないソイ。
明日から始まる、商人の街への5日間の街道の旅路。
そこには期待など1ミリも残されておらず、俺の脳内メモリにはただ、明日からの不条理なデスロードへの尽きない不安と、鬱々とした深い憂鬱だけが、重苦しく広がっているのだった――。
(第37話




