【第12話】「老後の蓄えの代償と、黒い剣士」
あの都会の大規模クランの副長(和尚)を無法地帯の死角で合法的に圧殺し、ギルドから永久BANへ追い詰めてから数日。
固有スキル【不屈の正義】のレベルが上がったわけではない。あれはただの固定特殊スキルだ。
上がったのは、あのガチ勢の連発魔法を命がけで耐え抜いたことによる、俺自身の【基礎ステータス(フィジカルと精神力の最大値)】だった。
チート能力なしの素人転生者だった俺だが、日夜、家から徒歩3分の格安ダンジョンで積み重ねてきた地道な経験値と、今回のレベルアップのおかげで、肉体の頑強さもやせ我慢のスタミナも、以前とは比べ物にならないほど進化していた。最初の理不尽な直撃3回を耐え抜くための「器」が、確実に一回り強くなっている。
だが、そんな俺の前に、第一部最大の「良心の呵責(負債)」がのしかかってきた。
通路の端。両手を突き出した『謎の戦いの構え』のポーズのまま完全石像化している【石像の爺さん冒険者】。
いつもなら、この硬直したポーズのまま「ワシらの今後の冒険方針としてはだな――」と口だけをハイパースピードで大爆走させているお爺さんだったが、今日は違った。
その口が、珍しく、しんみりとしたトーンで静かに紡ぎ出されたのだ。ボケは完全にスカッと覚め、その目はシリアスな老戦士の顔へと急変していた。
「――昨日な、ばぁさんにあの緑色の最高級ポーションを失くしてしまったと伝えたら、ワシの胸ぐらを掴んで、大粒の涙を流して号泣しながらワシを叱ったんじゃ。『あんな老後の蓄えをすべて叩いて持たせた命のポーションを使うなんて、どれほど危険な目に遭ったのか。生きて帰ってきてくれてよかった』と。……ばぁさんはのぅ、安全な場所ならとワシが潜るのを許してくれておった。それなのに、ワシの不手際で、あの人をあんなに悲しませて、夜も眠れんほど心配させてしまった。ワシは、自分が本当に情けない……」
(……クソッ……!!! 胸が痛てぇ、痛すぎる……!! お爺さん、それ、ボケてたお前から俺がハゲを倒すためにひったくって使っちゃったんだよ……!)
いつもは大暴走しているお爺さんの、この珍しいしんみりとした、お婆さんへの深い愛 [1.1]。
真相を言えるはずもなく、俺は自分のせいで老夫婦の全財産を消滅させ、お婆さんを大号泣させてしまったという圧倒的な罪悪感に頭を抱えた 。最高級ポーションの値段は、普段のスライム日課(1ポイント固定経験値)の稼ぎじゃ一生かかっても弁償できない 。
俺はポーション代を稼いで弁償するため、人生で初めて、普段の訓練用ダンジョンとはまったく別の場所にある『高難易度クエスト用の総合窓口ロビー』へと足を運んだ 。もちろん、初級ダンジョンの公営職員であるタダシは一緒には来られない――はずだった 。
「レン殿! 待ってください!」
振り返ると、勤務時間外のタダシが、息を開らせてロビーまで走ってきていた 。
「私は初級ダンジョンの職員ですから、今回の遠征に同行することはできません…… 。しかし、レン殿が初めて受ける高難易度クエストです 。心配で、居ても立っても居られず、見送りに付いてきてしまいました……!」
タダシは自分の無力さに悔しそうに拳を握りしめながらも、心から俺の無事を祈ってくれた 。お爺さんはダンジョン専用のオブジェクトなのでもちろんここにはいない 。タダシの健気な優しさに感謝しつつ、俺は田舎の冒険者では誰も受ける人がいなかった高難易度の遠征任務の書類を窓口で手に取った 。
それは、中央から流れてきた高ランクハンターからの直接依頼――【草原のオークキング討伐・クエスト補助】 。一攫千金の報酬だが、素人には荷が重い危険な任務だ 。
俺が気を引き締め、ギルドのロビーの死角で、その依頼主との合流を待っていた、まさにその瞬間だった 。
トコトコと爽やかな足音と共に、男が現れた 。
その男の背中には、あまりにも禍々しい漆黒の大剣が背負われていた 。
そして、全身はバキバキの彫刻のような見事な筋肉質で覆われており――上半身は、完全な裸だった 。
だが、俺の、緊張の面持ちでロビーの隅で見守っていたタダシの網膜が、正面から歩み寄ってくるその男の胸元を捉えた瞬間 。
俺たちの脳内メモリに、これまでのサバトマダムたちのビキニ老婆結界すらも生ぬるく感じる、特大の衝撃波が直撃した 。
――それは 乳首というには あまりにも大きすぎた 。
大きく、分厚く、重く、そして黒すぎた 。
それは 正に、光を吸い込むダークマターだった 。
その完璧な漆黒領域(ダークマター乳首)の威圧感に俺が硬直していると、男はフッと表情を緩め、これ以上ないほど温厚で正しい礼節をもって、俺の手を強く握りしめた 。
「初めまして。私の名前はガットと申します。君が今回のオークキング討伐の補助を引き受けてくれた、現地の勇敢な冒険者くんですね
その一人称、核心、そして極めて洗練された正しい言葉遣い 。その佇まいからは、彼がかつて王国の高潔な騎士であったという、深い背景が滲み出ていた 。
「いやぁ、地方のギルドゆえに誰もこの難易度のクエストを受けてくれないかと思っていましたが、君のように誠実な若者がパーティーに入ってくれて、私は心から感謝しています 。実は私、あのオークキングには大切な仲間を傷つけられた深い因縁がありましてね 。何としてもこの手で討伐したいのです」
「あ、ありがとうございます、ガットさん 。……あの、一つお聞きしてもよろしいですか [1.1]。なぜ、上半身が裸なのでしょうか?」
俺が耐えきれずに尋ねると、ガットさんは至って真面目な顔で答えた 。
「あらゆる不意打ちに瞬時に対応するため、上半身は完全な裸にしているのです [1.1]。防具の重みや摩擦すら、戦場では命取りになりますから」
おかしな不審者などではない 。喋ってみたら、俺たちの参加に心から感謝してくれる、めちくちゃ悪意のない、真っ直ぐで誠実な本物のナイスガイだった 。
本人は、ギルドの人間以外から自分が【黒い剣士】と呼ばれている本当の理由を、1ミリも知らない 。漆黒の大剣を背負っているからでも、元王国の騎士だからでもない 。ただただ、その剥き出しの筋肉質の胸元に鎮座する【一対の乳首】のせいなのだ 。
(嫌だ……! めちゃくちゃ良い人なのは分かったけれど、ただ上半身裸の主張が激しすぎるだけの人だ……!合流した現時点で、すでにあのダークマターが強制的に網膜に焼き付けられている…… 。これからこの人とクエストを往復する間、ずっとこれに付き合わされるのか……! でも、お婆さんの老後の蓄え(ポーション代)を弁償するためには、このクエストから逃げるわけにはいかねえ……!)
ロビーの隅では、付いてきてしまったタダシがそのダークマターの直撃を喰らい、「ひぇ……、く、黒い……。剣じゃなくて、そこが漆黒の……」と、あまりの不条理なビジュアルショックに顔面を土気色にしてガタガタと震えていた 。
今回は、初級ダンジョンとはまったく別の独立したクエスト窓口での遠征手続きのため、あの狡猾ビッチなアイ先輩の出番はなく、カウンターは別の無能な受付が淡々と事務処理をこなしているだけだった 。それが唯一の救いだ 。
「よし! 出発しましょう、レンくん! クエストへ向けて、いざ進もう!」
「う、応ッ……!!(決死のやせ我慢)」
俺は、お爺さんのあの珍しくしんみりとした顔を思い浮かべ、罪約感を燃料にして根性を叩き直すと 、隣で涙目で敬礼を送ってくるタダシに見送られながら 、目の前を堂々と上半身裸で進むガットさん(ダークマター乳首)の背中を追い、過酷なクエストへと力強く足を踏み出すのだった―― 。
(第12話




