第2話 噂
――やがて、杏が小さな声で話し始めた。
「……噂」
「噂?」
「私の……悪い噂」
杏は震える声で続けた。
「私が友達の悪口を言ってたとか……人によって態度を変えてるとか……」
「そうなんだ……」
藍の表情が曇る。
「でも、それ、本当じゃないんだろ?」
と陽斗。
「……うん」
杏は頷く。
「でも、みんな信じたの」
「……」
「誰かが言って……それを誰かが聞いて……また別の人に話して……」
言葉が詰まる。
「……気づいたら、私が悪者になってた。そのうち、インスタとかグループLINEにも私の悪口が書かれるようになって……。」
「誰かに相談した?」
藍が尋ねる。
「……AIに」
陽斗と藍が顔を見合わせた。
「AI?」
「こんな話、親や友達には相談しづらくて……。以前から、悩み事とか色んなことをAIにときどき相談していたの。」
「そうなんだ……」
「それで……私が噂のことを相談したら……」
しばらく黙ってから、杏はスマホを取り出し、画面に残っている文章を読み上げた。
「『それはあなたが友達に嫌われているからかもしれません。何か心当たりはありませんか?』って」
陽斗と藍の表情が曇る。
「……それだけ?」
「うん」
「でも……」
杏の声が震える。
「それから、ずっと考えるようになったの」
「何を?」
「私が本当に嫌われてるんじゃないかって」
杏は俯きながら話をつづけた。
「教室に入ると、みんなが私を見てる気がして……」
「……」
「廊下を歩いてると、後ろから悪口が聞こえる気がして……」
「実際に誰かが言ってたの?」
藍が尋ねる。
「……最初は、いたと思う」
杏は答える。
「でも、そのうち……誰もいないところでも聞こえるようになって」
「誰もいないのに……」
杏の目から涙が零れた。
「『杏って最低』とか……『いい子ぶってる』とか……」
「……」
「何度も、何度も……」
「杏ちゃん」
藍が静かに言う。
「私たちがいるよ」
杏が顔を上げる。
「一人じゃない」
「……藍ちゃん」
「陽斗くんもいるし」
「ああ」
陽斗が頷く。
「ありがとう。……でも」
「何?」
「私……どうしたらいいのか分からない」
「まず、大人に相談しよう」
「……先生?」
「うん。先生に話そう。それから家の人にも。」
「でも……」
「大丈夫」
陽斗はできるだけ穏やかな声で言った。
「今まで一人で抱えてたんだろ?」
杏は小さく頷く。
「だったら、もう一人で抱えなくていい」
藍も頷いた。
「私たちも一緒に話すから」
「……本当に?」
「ああ」
「……迷惑じゃない?」
「そんなわけないだろ」
陽斗は笑った。
「友達でしょ?」
と藍も続ける。
杏はしばらく黙って陽斗と藍を見つめていた。
そして――
「……うん」
小さく頷いた。
「……ありがとう」
◇
その後、杏は陽斗たちとともに、担任の紫苑ゆかりに事情を話した。
「そうだったの……。ごめんね、気付いてあげられなくて。」
「……いえ、私が一人で抱え込んでいたのが悪かったんです。誰かに相談したかったけど、勇気が出なかった。」
「……でも、藍ちゃんと竜胆くんが話を聞いてくれた。自分は独りだと思っていたけど、手を差し伸べてくれる人はいる。二人がそう気付かせてくれたんです。」
「そっか……。よく話してくれたね。ありがとう。……それと、雨宮さんと竜胆くんも。」
「他の子たちには、私の方から話しておくわ。何気ない一言が、時に人を深く傷つけることがあるって。今回のことを、みんなにもよく考えてもらいましょう。」
「……はい。ありがとうございます。」
「もし、今後まだ続くようなら、またいつでも話しに来て。先生は、小野さんの味方だから。」
紫苑先生は、そう言って優しく微笑んだ。
「分かりました。ありがとうございます。」
杏は頭を下げる。陽斗たちも一緒に頭を下げた。
「あ、よかったら紅茶でも飲む?オレンジペコー。最近お気に入りなの。」
「いいんですか?……じゃあ、お願いします。」
杏は少し笑顔になった。
オレンジペコーの柔らかな香りがあたりに漂う。温かさと控えめな甘さが、杏たちを優しく包んだ。
◇
その後、職員室を出た三人は、靴箱の方へと歩いて行く。
「……二人とも、本当にありがとう。二人がいなければ、私、どうなっていたか……。」杏は、少し落ち着いた様子で話した。
「これからは、いつでも私たちに相談してね。」
「そうそう。俺たちでよければ力になるよ。」
「うん。……嬉しい。頼りにしてるね。」
杏ははにかんで笑った。
「お家の人にも話すの?」藍が尋ねると、
「……うん。心配かけたくなかったから今まで親には言わなかったけど。……でも、言わずに抱え込んでいる方が、余計に心配かけちゃうかもって思ったから。」
「……そっか。うん、それがいいと私も思う。」
藍はそう言って微笑んだ。
「じゃ、私、こっちだから」
杏はそう言って、陽斗たちが帰る方向とは逆の方向を指さした。
「ああ。じゃあ……気を付けて」
陽斗は右手を挙げた。
「また明日ね。」
藍も手を振る。
「うん。ありがとう。」
杏は軽くお辞儀をして去っていった。
――事件はまだ解決したわけではない。
杏の心の傷が、一日でなくなるわけでもない。
それでも――。
少なくとも、彼女は独りではなくなった。
◇
杏と別れた後。
「……大丈夫かな、杏ちゃん」
藍が呟く。
「きっと大丈夫だよ」
「そうかな……」
「ああ。先生も動いてくれるだろうし」
「……そうね」
「それにしても、危ないところだったな。あのとき、藍が校舎の方を振り向かなかったら……」
「ううん。陽斗くんが窓際にいた杏ちゃんを見て、様子が変だから見に行こうって言ってくれたから。」
「まあ、なんにせよ、助けられてよかった。」
「そうね」
二人で話しながら校庭を歩いていた――その時。
藍が突然、足を止める。
「……?」
そして、後ろを振り返る。
「どうした?」
陽斗も振り返る。
誰もいない。
「……今、誰かの声が聞こえた気がして」
「声?」
「うん」
「何て?」
「……分からない」
藍はしばらく後ろを見つめていた。
「でも……誰かが呼んだような気がした」
陽斗は首を傾げる。
「俺には聞こえなかったけどな」
「……そう」
「気のせいじゃない?」
「……そうかも」
「帰ろっか」




