第1話 雨の教室
――暗い部屋。男が一人、椅子に座っていた。カーテンの隙間からは、外の光がわずかに差し込んでいた。
男は、目の前の机に置かれたパソコンの画面を真剣な表情で見つめていた。瞳には、ディスプレイから放たれる無機質な光が映っている。
しばらく画面を眺めた後、キーボードに指を置いた。カタカタ、カタカタッ……。静かな部屋に、キーを叩く乾いた音だけが響く。やがて、一つの文章が入力された。
“Quin es l'estatut d'aquel afar?(例の件はどうなっている?)”
男はエンターキーを押した。しばらくすると、画面に別の文章が表示される。
“Tot se debana plan. La version beta es estada distribuida al Japon,
e sèm ara a collectar de donadas de mòstra.(順調です。日本でもβ版の配布が完了し、サンプルのデータが集まってきています。)”
男は小さく息を吐いた。
「D'acòrdi (……よし)」
小声で呟く。
その後、パソコンの横をちらりと見る。そこには、小さなコーヒーカップが一つ。男はそれを手に取り、ぬるくなったエスプレッソを口に含んだ。濃厚な香りと苦みが、口の中に広がっていく。
一息ついてから、椅子から立ち上がろうと男が腰を浮かせた――その時だった。
ビーッ!ビーッ!ビーッ!
部屋中にアラーム音がけたたましく鳴り響く。
「……!?」
慌ててディスプレイに目をやると、画面中央に一行の警告メッセージが浮かんでいた。
“LOS FILTRES ETICS DESACTIVATS.”
男の顔色が変わる。
「...Qu'as dich?!(……なんだと!?)」
椅子から立ち上がり、画面を凝視する。
「O pòdi pas creire...(そんな……)」
男は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。冷たい汗がゆっくりと首筋を伝う。心臓の音がやけにうるさく感じられた。
やがて、頭を抱えるようにして呟いた。
「――Aquò pòt pas èsser just. Perqué ...? (――そんなはずはない。一体、なぜ……?)」
パソコンのファンの回る音だけが、暗い部屋に響いていた。ディスプレイの光は、男の顔を青白くぼんやりと照らしていた。
◇
――岡山県総社市。かつて吉備の国の中心地として栄えた、県の中南部に位置する人口7万人ほどの地方都市だ。
その日は、頭上に澄みきった青空が広がり、遠くの空には雲がたなびいていた。校舎の窓ガラスが、午後の日差しを反射している。
「今日、暑いなぁ」「そうね」
グラウンドの端を、二人の生徒が歩いていた。
総社中央高校2年A組・竜胆陽斗。制服のシャツの袖を少しまくり、鞄を肩にかけている。その隣を歩いているのは、同じクラスの雨宮藍。
二人は並んで校門へ向かっていた。
「陽斗くん、今日も家に帰ったら剣術のお稽古?」
「ああ。毎日の日課だからな。」
「すごいよね。よく飽きないわね。」
「藍だって。なぎなた部の練習、サボらずに続けてるんだろ?」
「部活は毎日じゃないから。今日だってお休みだし。」
藍はそう言って笑う。
グラウンドでは、野球部が練習をしている。部員たちの大きな掛け声。遠くからは、吹奏楽部の音色が聞こえる。校庭には、青春という言葉がそのまま形になったような時間が流れていた。
――カキィンッ!
乾いた音が、あたりに響く。グラウンドから飛んできた白球が、すごい勢いで藍の頭へ向かっていた。
「あぶないっ!」
誰かがそう叫んだ。――その瞬間。
パシッ!
陽斗の右手が、空中を飛んできたボールを受け止める。
「……え?」
藍が遅れて振り向き、目を丸くする。近くにいた生徒たちも、何事かと二人を見ている。
「今の……」
「素手でキャッチした?」
「すげえ……」
「後ろからだったのに、どうやって?」
「……あれ、2年の竜胆先輩だよね。ほら、かっこいいってウワサの。」
「隣は、なぎなた部の雨宮先輩じゃない?確か、県大会優勝して全国行ったとか。」
「雨宮先輩もキレイだよね。男子にも人気みたいよ。」
「美男美女カップルかー、いいなぁ。」
グラウンドから、野球部員が駆け寄ってくる。
「すみません!大丈夫ですか!」
「ああ、大丈夫」
陽斗はボールを軽く投げ返した。
「ほら」
「ありがとうございます!」
野球部員が頭を下げ、グラウンドへ戻っていく。
藍はじっと陽斗を見ていた。
「……大丈夫?」
「ん?なにが?」
「手、痛くないの?」
「これぐらい平気だよ」
「本当?」
「うん」
「そっか。……ありがとね、陽斗くん。」
「どういたしまして」
「ところで、なんで分かったの?」
「なにが?」
「ボール。後ろから飛んできたでしょ」
「……ああ」
陽斗は少し考えるような顔をして、それから笑った。
「心眼ってやつだよ」
「……心眼?」
「そう。じいちゃんにいつも鍛えられているからね」
「そんなのでボールが見えるようになるの?」
「まあ、見えるというより……感じる?」
「何それ」
「企業秘密」
「ふふっ」
藍がおかしそうに笑った。陽斗も一緒になって笑う。
さっきより、少し風が強くなってきた。
「……あ」
藍が突然空を見上げる。
「どうした?」
「かなとこ雲……」
「え?」
陽斗も見上げる。校舎の向こう側の空に、いつの間にか灰色の大きな雲が立ち込めていた。雲のてっぺんは、平らな台のように横に広がっている。
「……あれ、かなとこ雲って言うんだ」
「うん。あの雲が出たら、急に天気が崩れることがあるって。おばあちゃんが言ってた。」
「へえ、そうなんだ。……確かに、今にも降りそうな気配だな。」
風が少し強くなった。グラウンドの砂が、細かく舞う。遠くから――
ゴロゴロゴロ……。
低い雷鳴が聞こえた。
「夕立かな」
「そうかも」
ぽつ。
藍の頬に、水滴が落ちた。
ぽつ、ぽつ。
雨粒が、次第に増えていく。
「早く帰ろう」
そう言って、陽斗は校門の方へと歩き出した。だが、藍は立ち止まったままだ。
「……藍?」
藍は、校舎の方をじっと見ている。
「……ごめん。なんでもない。」
「そう?……じゃあ、帰ろうか」
陽斗はそう言いながらも、少し引っかかっていた。気になって、藍の視線を辿る。
その先には――
四階の教室があった。
◇
四階。
誰もいない教室。
窓の外では、激しい雨が降り始めていた。
――ゴロゴロ……。
雷鳴が辺りに鳴り響く。
教室の中には、少女が一人だけ立っていた。
小野杏。2年C組の生徒だ。
杏は窓を開け、思い詰めた顔で雨の向こうを見つめていた。湿った風が教室の中へ吹き込み、カーテンが大きく揺れる。
「……うるさい」
誰もいない。なのに――
聞こえる。自分を責める声。自分を嗤う声。最近、ずっとこの声が聞こえていた。
「違う……」
杏は耳を塞ぐ。
「違う……私は……」
しかし、声は消えない。
「……もう、やめてよ」
杏の目に涙が浮かぶ。
杏は、震える手で窓を開け、左側の窓枠を両手で掴んだ。
そのまま下側の窓枠に、ゆっくりと右足をかける。
その時――
教室の扉が勢いよく開いた。
「小野!」
陽斗だった。
少し遅れて、藍も入ってくる。
「杏ちゃん!」
「……!」
杏が振り返る。
陽斗は驚かせないように、ゆっくりと近づいた。
「小野。そこから離れよう。」
「……来ないで」
「……分かった」
陽斗は足を止める。
「じゃあ、ここにいる」
藍も少し離れた場所で立ち止まった。
「……杏ちゃん、何があったの?」
杏は答えなかった。雨音だけが、教室を満たしていた。




