09
そのまま一睡も出来なかったから、次の日は大変だった。目は腫れぼったく、一日中頭痛がした。それでもリーリエは、努めて聖女らしく振舞った。セドリックが望む完璧な聖女らしく。しかし、そうすればするほど、胸には抑えようもない虚しさが湧いた。
「そういえば、リーリエ様。新しい絵画が食堂に飾られたんですよ。見に行かれましたか?」
あまりの様子に心配してか、神官が教えてくれた。連れられるままに見に行くと、食堂には大きな海の絵が飾られていた。大海原と、そこに漂う一隻の船。
「海の、絵……」
リーリエは呟いて、絵画を見上げた。約束通りに、セドリックが飾ってくれたのだろう。いい絵だ。名の知れた画家が書いたのかもしれない。でも、この海には、音がない。匂いがない。
こんなことを考えては行けないと思いながら、止められない。レオンから貰った貝殻の方が、よっぽど────。
「ええ。なんて大きく見事なんでしょう。これで神殿に居てもいつでも海が見られるようになりましたね」
リーリエは微笑む神官に、力なく頷くことしか出来なかった。
数日後。待ちわびていた、レオンとの謁見の時間になった。リーリエはきっちりと髪を結って謁見室へ向かった。
「レオン様、お待たせ致しました」
リーリエは部屋に入り、まず軽く会釈をする。いつものように軽薄な表情を浮かべるレオンに、静かに向き直る。
レオンは立ち上がって挨拶をしようとして、首を傾げた。
「……聖女サマ。なんかあった?」
「いいえ」
リーリエは首を横に振った。嘘をついた途端に胸に鋭い痛みが走ったが、表情には出なかったはずだ。だが、レオンはそのままリーリエの腕をとった。
「あっただろ」
口を開く。「私はいつも通りです」と、言えばいい。聖女らしく、優しく、厳かに。そう思っているのに。
「……っ、怒られて、しまいました」
頭で考えていたのとはまるで違う言葉が飛び出した。レオンが意外そうに目を瞬く。
「聖女サマが? ここで一番偉いんじゃないの」
リーリエは力なく首を横に振った。
「その聖女として、不出来だったからです……。私の最近の振る舞いは、聖女らしくないと」
「貴方と話すようになって、初めて、"私"はどう思うのか、考えるようになったんです。でも、それは聖女らしくないって。"私"は必要ないんですって……!」
一度話せば止まらない。慟哭するリーリエを、レオンが驚いた顔で見ている。
「だから、全部止めなくてはいけないのです。貴方と祈りとは関係ない話をするのも、贈り物を貰うのも」
リーリエは体を折り曲げて、絞り出すように叫んだ。
「でも、嫌なんです……っ」
何かを言おうとしたレオンが、口を閉じた。嫌だと泣くリーリエを見て、怖々と頬に手を伸ばし、涙を拭った。
「聖女サマ。いや、リーリエ」
一度も聞いた事のないような、真剣な声でレオンがリーリエの名前を呼んだ。
「俺さ……怒られるかもしれないけど、アンタにそう言われて、嬉しい」
涙に濡れたまつ毛がゆっくりとあがり、薄青の瞳がレオンを捉えた。
「だって、それくらい俺と話すのが好きってことだろ。前言ってくれたみたいに」
「……そうです。でも、お兄さま……、神官長は言っていました、貴方は外の人間で、いずれは去っていく。私と関わるのもごく短い時間だけだって。だから、貴方の話に影響されてはいけないと」
「なるほどな」
レオンは腕を組んだ。赤髪が揺れて、レオンの目にかかる。
「……籠の鳥が外の世界を知るのを防ぎたいっていう事だな」
ぼそりと呟くと、改めてレオンはリーリエを見た。
「なあ。アンタ、外に出たいか」
思わず、呼吸を止めた。目を見開いて何も言えないリーリエに、レオンは困ったように笑った。
「悪い悪い、急すぎたよな。それに……ここじゃ話せない……か」
横目でリーリエの後ろに控える神官を見て、レオンは小声で呟いた。
「今のは冗談だ、忘れてくれ」
レオンはそう言いながら、再びリーリエの手を取った。手のひらの上で、指がゆっくりと動く。
『こんや へやで』
レオンはすぐに手を離し、リーリエに手を振った。
「まあ、怒られたっていうなら、話すのも良くないだろうから。今日はもう行くよ」
「……はい」
リーリエは戸惑ったまま頷いて、そして今日の謁見は終わった。




