9 アパートにて
それなりに事情やら能力やらの情報を開示し、「とりあえず今日はもういい」とアラタが解放されたのは、東の空が明るくなり始める頃だった。
とりあえず、である。
車の運転免許証も確認されたし、スマートフォンにリアルタイムで居場所が分かるGPSアプリも入れられた。それを閲覧できるのは当然、あの『きぐるみ様』の中身、木栗成実である。
解放されたというより首輪を着けて野に放たれたと表現した方が正確かも知れない。
成実曰く、元霧市に現れた地球外生命体や超常の存在を監視し、場合によっては適切に『処理』するのが彼女の仕事だそうで──問答無用であの草刈り機の錆にならなかっただけマシか、などとアラタは思う。
街の中心にある高級マンションから自宅アパートまでは、楓が車で送ってくれた。徹夜にも拘わらずスムーズな運転だったが、カーナビとアラタの案内で辿り着いたアパートを、「……ここですか?」と二度見していた。さもありなん。
楓に礼を言って、車が走り去るのを見送った後。白み始めた空の下、アラタは古ぼけたアパートの階段を上る。
築ウン十年、2階建ての木造アパート。
金属製の階段は錆だらけで所々穴が開いているし、申し訳程度にかかっているトタン屋根はボロボロで雨漏りし放題な上、大雨の時には水を集めてちょっとした滝を作り出す。階段を上れるだけマシ、といった風情だ。
なるべく音を立てないようにと思っても、段は金属だし軋みはすごいし、まず無理な相談である。
ただ幸いなことに、このアパートにはアラタ以外の入居者はいないので、この時間でも直接的な安眠妨害にはならない──だろう、多分。
うるさくてごめんなさい、と近隣住民に内心謝りつつ、ボロボロの外廊下を抜け、一番奥のドアの鍵を開ける。
ガチャン、ギィィ…と、いかにも古そうな音が、朝もやの中に響いた。
「…ふう」
中に入ってドアを閉め、ようやく息をつく。このホモサピエンスの姿も、随分板についてきた。無意識にこういう動きが出る程度には。
「あんまり慣れても困るんだけどな」
ぼそりと呟き、アラタは擬態を解く。
視界が低く、広くなり、玄関から短い廊下兼キッチン、そして奥の部屋の床の感触が体表に伝わる。ひんやりしていて気持ち良い。
ずるりと移動すると、成実から貰ったサンダルが玄関に転がり、着ていたポロシャツとズボンが廊下の床に残された。
柔らかく不定形の、緑色のゲル状物体──今のアラタの姿を端的に表すなら、そういった表現になるだろうか。物体ではなく、れっきとした知的生命体だが。
部屋の中は殺風景を通り越して、何もない。家具もなければ布団もない。入居者などいないと言っても信じてもらえそうな六畳間。それが、今のアラタの家だ。
もっとも、本当に何もないわけではない。押し入れの中には、この星に来る時に持ち込んだごくわずかな私物と、ホモサピエンスに擬態するのに必要な物──例えば衣類とか、そういったものが詰め込まれている。
その気になれば服も偽装できるのだが、質感まできっちり再現するのが面倒なため、アラタの場合擬態するのはホモサピエンスの生身と下着までにしている。
なお、下着のデザインは日によって変える徹底ぶりである。
申し訳程度に掛かっているカーテンを身体の一部に引っ掛け、ずるずると開ける。
2階の角部屋、東と南にそれぞれ大きな窓があるのがこの部屋の良いところだ。市街地の外れの外れなので、窓の外から室内を見られる心配もない。
日の出前だが外はかなり明るく、ぼんやりとした光が窓から差し込んでいる。
アラタは東の掃き出し窓に近付き、朝日が差すはずの位置にのっぺりと広がった。
そうして待つこと数十分。朝もや越しに朝日が差し込み、アラタの体表がじんわりと温かくなる。
身体の中で、コポコポと気泡が上がる音がし始めた。
ヴェルデ族は、恒星が放つ光のうちある程度の範囲の波長の光を使って、体内エネルギーや身体の稼働に必要な物質を作り出す。仕組みとしては、地球で言うところの植物やソーラーパネルに近い。
地球を照らす恒星──太陽の光は、ヴェルデ族が必要とする波長の光を多く含んでいるので、窓越しでもこうして小一時間ほど日の光を浴びれば、余裕で一日過ごせる。
曇りの日でも時間を掛ければエネルギー充填が可能。それも、ヴェルデ族のオススメ移住先として地球が候補に挙がっている理由の一つだ。
あとは、大気組成が無害なこと、気候がそれほど厳しくないこと、暇潰しに丁度良い、適度にごちゃついた社会が形成されていること、知的生命体の個体数がやたら多いので、こっそり紛れ込んでも気にする者はそれほどいないこと──いや、アラタは速攻でバレたが。
木栗成実のぶすくれた顔を思い出し、体表にさざ波が走る。
正直、昨夜の出来事はアラタにとって完全に予想外だった。
それは相手にとっても同じだろうが、きちんとホモサピエンスの社会に溶け込んで平和に暮らしているアラタに問答無用で草刈り機を突きつけ、自宅に連れ込んで尋問するなど、一体何を考えているのか。
最後の方は着ぐるみの頭を改造して何だか妙な達成感に包まれてしまったが、冷静に顧みればどう考えても不当な扱いというやつだろう、これは。
感情の揺れに反応して、コポ、と少し大きめの気泡ができた。それを適当に体表から追い出し、アラタは日光浴に意識を戻す。
朝もやは綺麗に消え、窓から見上げる空は青く晴れ渡っている。日差しは温かく、穏やかだ。
上空を滑るように飛ぶ小さな影は、恐らく繁殖のために越冬地から戻って来たツバメだろう。ピチチ、ジュリ、と独特のさえずりが聞こえる。
総じて、うららかな春の日。とても心地良い──などと思いつつ、ぼんやりすること3時間ほど。
「…?」
カンカンカン、と金属を踏むリズミカルな音がして、アラタはもぞりと身じろぎした。




