2 不審者
その日最後の配達を終え、営業所に戻って来る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
使っていた軽自動車の下回りを軽く洗って泥を落とし、他に問題がないか、ぐるりと一周して確認する。月明かりと構内の常夜灯だけでは確認するのには少々心許ないが、これといって目立った汚れや傷はないように見えた。
事務所に入り、残業している正社員に挨拶して、今日の処理件数を確認する。
アラタはこの配達業者の契約社員だ。週に4日、午後から夜間の配達業務を請け負っている。それほど給料は高くないが、配達の時間指定さえ守ればある程度融通が利くのが良いところだ。
「──よし、お疲れさん。次回は明後日か?」
「はい、また午後イチからですね」
次の出勤予定を確認して車の鍵を返却し、軽く事務処理を済ませれば、今日の業務は完了だ。
「お疲れさまでした!」
人影まばらな事務所に頭を下げ、アラタは営業所を出た。
自宅アパートまではそれほど遠くないので、通勤は徒歩である。郊外に位置する営業所から街の中心部方面へ、大通りを歩く。
空は綺麗に晴れていたが、満月の輪郭は曖昧にぼやけていた。
田んぼにたっぷり張られた水が日中蒸発し、夜には放射冷却で急速に冷やされるので、この時期はもやが掛かりやすいのだ。
見上げると、満月の前を煙のような濃淡がゆっくり横切っていくのが見えた。
「…おっと」
そのままボーっと歩いていたら、曲がるべき所を通り過ぎていた。
アラタは一瞬引き返そうとして、思い直す。確かすぐ先に、同じ方向へ向かう細い路地があったはずだ。車は進入禁止だが、徒歩なら普通に通れる。
たまには違う道を使うのも乙なもの──鼻歌交じりに左に折れたところで、
「……は?」
ずんぐりむっくりした『何か』が、細い道の中央に鎮座していた。
おかしい、ここは通路のはずなのに。誰だここに粗大ごみを捨てた奴は。
ぽかんと開いたアラタの口から、間抜けな声が漏れる。それが聞こえたのか、『何か』が動いた。
幸か不幸か、それは粗大ごみではなかった。しかしそれでは何なのかというと、名状し難いことこの上ない。
(いやマジ何だこれ)
曲がり角にぽつんと佇む街灯と満月の光に照らされた、全体としては二足歩行らしき丸みを帯びたボディ。その頭部には、三角形の物体が2つ、ついている。
身長──身長と言っていいのか不明だが、頭部らしきものの頂点から地面までの長さは、アラタと同程度。ただし、横幅はアラタの倍以上ある。圧迫感を覚えるのも納得のボリュームだ。
それが、ゆっくり、アラタの方を向いた。
そう分かったのは、頭らしきものに顔っぽいものがついていたからだ。
一抱え以上ありそうな巨大な頭部に、これまた大きな目が一対。真ん丸な瞳孔の中央に、それぞれぽつんと、赤い光が見える。
全体のディティールは、そう──
「き、着ぐるみ…?」
それにしては、目の中央の赤い光が妙に生々しい。かといって、生身にも見えない。そもそも、こんな生き物がいてたまるかという話だが。
ずんぐりむっくりした何かは、草刈り機を構えていた。アラタが昼間見たのと同じ、両手で保持して長い柄の先端の刃で草を刈る型だ。
ただし普通は地面に対して水平になるよう付いているはずの刃は、地面に対して垂直に、縦方向に付いている。本来あるはずのカバーもない。
円形の刃が月明かりを反射して、高速回転しているのが見えた。なのに、特有のエンジン音も、モーター音もしない。チィィィィ…というわずかな摩擦音だけが、漏れ聞こえている。
昼間も聞いた、耳に馴染んだあのエンジン音が聞こえない。それだけでここまで恐ろしくなるものなのかと、アラタは半ば呆然としながら考える。
赤く目を光らせた謎の物体は、のっそりとアラタを見詰め、軽く首を傾げている。
一歩踏み出す、その動きに合わせて、足と胴体の一部がまだら模様にぬらりと光った。何か、普通の液体ではないもので濡れているらしい。しかも不均一に。
それが一体何なのか、欠片も理解したくない。アラタが心の底からそう思っていると、そいつはゆっくり頭部を下げ──
──ダン!
「いっ!?」
一足飛びにアラタの真横に突っ込んできて、半ば彼を突き飛ばす形で何かを思い切り踏みつけた。
アラタは2、3歩よろめいて、そのまま尻餅をつく。目線が下がり、そいつの足元が目に入って、ギョッとして固まった。
黒っぽいまだら模様の丸っこい足が、茶色っぽくて黒光りする虫──多分、虫を、踏み潰していた。
多分と付くのは、どう見てもサイズ感がおかしいからだ。成人男性よりはるかに大きい足にしっかり踏み潰されているのに、その足からはみ出している。しかも、形状が分かる程度に、がっつりと。
ふわふわした質感の足には似つかわしくない、金属めいた光沢のある短い鉤爪が、巨大な虫にめり込む。ギヂィと妙な音がして、もがく虫の動きが弱くなった。
そこに、例の音がしない草刈り機の刃が振るわれる。地面ギリギリを器用に走った丸刃が、虫の頭をオサラバさせた。
首が飛ぶと同時に体液が飛び散って、一部がアラタの靴にかかる。
びしゃ、というよりねちゃあ…という質感だった。アラタの顔が引きつるのも致し方ないことだろう。
虫の胴体が動きを止めると、ゆっくりと足が退いた。
そしてあらわになったのは、何となく油じみた光沢のある茶色っぽい羽と、縦に長い楕円形のボディ。
跳ね飛んで行った頭部を見遣れば、体長より長い触角が2本、この期に及んでなおピクピクと動いている。
つまるところ、この虫は、一部地域で『アブラムシ』などと呼ばれる家庭内不快害虫、いわゆる『チャバネゴキブリ』と同じ姿をしていた。サイズ感さえ無視すれば、だが。
「な、なんで…」
こんなサイズのゴキブリなんか知らない。確か海外には馬鹿でかい種類もいるらしいが、それでもここまで大きくなかったはずだ。
訳が分からず、アラタが地面にへたり込んだまま呻いていると、突然、喉元に草刈り機が突きつけられた。
「!?」
高速回転する丸刃のわずかな音と振動が、顎の下、喉のギリギリ手前にある。状況を理解してゆっくり視線を上げると、アラタを見下ろす、一対の赤い光。
じり、と後退ったら、草刈り機もきっちりついてきた。無理だ、逃げられない。
──きぐるみ様と遭遇したら、目を合わせてはいけないよ。
いつだったか、田中に教わったことが頭に浮かぶ。
──敵だと思われてしまうから。
色々と手遅れだ。思い切り目が合ったし、訳が分からない巨大ゴキブリを殺すところを見てしまったし、というかやっぱりアレか、こいつが例の『きぐるみ様』なのか。
確かに、頭に角のようなものは2本ある。チェーンソーではなく草刈り機だが、それっぽい凶器を振り回しているところも見た。車と並走できるかは知らないが、ゴキブリもどきを踏み潰す動作は滅茶苦茶素早かった。
可能性を否定する材料が見つからない。
アラタが顔を引きつらせながら赤い光をじっと見返していると、きぐるみ様(仮)が小首を傾げた。
「……宇宙人が、どうして人間のふりをしている?」
「っ!?」
喋った。
いや、それ以前に。
アラタは内心で悲鳴を上げた。
(──なんで、バレたんだ…!?)




