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episode.08 〜sideアシュレイ〜



静かな雨音が窓を叩いていた。


監察局の解析室には、机の上の魔法灯だけが淡く揺れている。アシュレイは扉を開けたまま、小さく息を吐いた。


「……まだいたのか」


返事はない。


机へ伏せたまま、リゼは眠っていた。


書きかけの術式資料、握ったままの羽ペン。限界まで集中していたのだろう。


アシュレイは静かに近づき、起こそうとして、ふと動きを止めた。


眠っているリゼは、驚くほど無防備だった。普段の張り詰めた空気がない。感情を押し隠したような冷たさもない。


ただ静かに眠る姿は、年相応の少女にしか見えなかった。


「…ごめん、なさい……おばあさま」


小さな寝言が落ち、アシュレイは僅かに目を細めた。


エルシア。感情を抑えて生きる魔女の里。


リゼは今も、その教えを身体の奥深くまで染み込ませている。


しばらく彼女を見つめたあと、アシュレイは自分の外套を肩へ掛けた。


その瞬間、眠ったままのリゼが、無意識に外套の端を掴んだのを見て、アシュレイは思わず動きを止めた。


小さな指先だった。縋るようにも見えるその仕草に、胸の奥が微かにざわつく。


ふと、昔の記憶が蘇った。


幼い頃の妹も、よくこんなふうに服の裾を掴む癖があった。


感情が顔に出やすい子だった。嬉しい時はすぐ笑い、怖ければ泣く。怒れば隠そうともしない。


アシュレイとは正反対だった。


『お兄さま、見て!』


花を見つけては笑い、菓子を食べては目を輝かせる。感情を隠すことなど知らない子だった。


だからこそ、最初にリゼを見た時は驚いた。


こんなにも静かな人間がいるのかと。


感情を閉じ込め、波一つ立てないように生きている。それはどこか、人間らしさまで削り落としているようにも見えた。


だが同時に、羨ましくもあった。


感情は、人を壊す。アシュレイはそれを知っていた。


数年前、王都南区で起きた感情暴走事件。


夜道で妹が男たちに襲われた。


恐怖、混乱。助けを求めようとして、魔力が暴走し、膨れ上がった魔力は周囲一帯を巻き込み、多くの被害を出した。


妹自身もその反動に耐えきれなかった。


『……こわい』


震える声。血に濡れた指先。


アシュレイの服を掴みながら、妹は泣いていた。


『お兄、さま……』


その声を最後に、彼女は目を覚ましていない。今も王都中央医療塔で眠り続けている。


妹は悪くない。恐怖を感じるのは当然の状況だった。


感情が溢れるのも、人として自然なことだった。


それでも結果として、多くの人が傷ついた。だからこそ、アシュレイは感情を恐れている。


激情は危険だ。


怒りも悲しみも、ときに人を容易く壊す。


だが、リゼを見ているとそれもまた正しいとは思えなくなる。


彼女は抑え込みすぎている。


感情を閉ざし、自分自身の心すら分からなくなるほどに。


妹とは真逆だ。そのどちらも痛々しかった。


「……うまくいかないものだな」


小さく零した声は、雨音に紛れて消えた。


アシュレイは静かに目を閉じる。もう何ヶ月、医療塔へ足を運んでいないだろう。


最初の頃は毎日のように通っていた。


眠ったままの妹へ話しかけ、いつ目を覚ましてもいいように花を替え、医師の言葉に僅かな希望を探していた。


けれど時間が経つにつれ、それも減っていった。


目を覚まさない現実に慣れてしまったのか。


それとも、目を覚ました妹に、自分はどんな顔を向ければいいのか分からなくなったのか。


アシュレイには判断がつかなかった。


ただ医療塔の白い部屋へ入るたび、あの日の光景を思い出す。


怯えた声、震える指先、血の匂い。


『……こわい』


助けられなかった。


その感覚だけが、今も胸の奥に残っている。


だからだろうか。


感情を押し込めるように生きるリゼを見ていると、放っておけなくなる。


まるで真逆の場所で、同じように壊れかけている気がした。


アシュレイは眠るリゼを見下ろす。


静かな寝息、外套を掴む小さな手。


「……お前は」


そこまで口にして、言葉を飲み込んだ。


窓の外では、春の雨が静かに降り続いていた。


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