episode.07
王都へ来てから、気づけば二ヶ月近くが過ぎていた。
雪はすっかり溶け、王都の街路には淡い春の花が並び始めている。
最初は耳障りだった喧騒にも、リゼは少しずつ慣れ始めていた。
「リゼ、昼食行くけど一緒に来る?」
解析室へ顔を出したミレイアが気軽に声をかける。以前なら断っていただろう。だがリゼは資料から顔を上げ、小さく頷いた。
「……では、ぜひ」
「うんうん、良い進歩ね」
ミレイアが笑う。
そのやり取りを見ていた若い術師が、不思議そうに目を瞬いた。数ヶ月前まで、“エルシアの魔女”は近寄り難い存在だった。
だが今では、局内にも少しずつ慣れた空気が出来始めている。
無愛想なのは相変わらずだが、質問をすれば答えるし、術式解析の腕は圧倒的だった。
何より、最近は以前より僅かに空気が柔らかい。リゼ自身は気づいていなかったが。
昼食を終えた帰り道。
監察局の廊下を歩いていると、外に小さな屋台が見えた。以前アシュレイと王都に出かけた時に食べた焼き菓子屋だった。
リゼは無意識にそちらへ視線を向けるとと隣のミレイアがにやりと笑った。
「たまにああやって屋台が来るのよ。買ってく?」
「……いえ」
「好きなの?あそこの焼き菓子」
そう言われてリゼは僅かに黙り込む。否定しようとしたその時。
「買ってきたらどうだ?」
低い声が割って入った。
振り返ると、廊下の向こうからアシュレイが歩いてくる。書類を片手に持ったまま、いつもの無愛想な顔だった。
「アシュレイ、聞いてたの?」
「たまたま聞こえていただけだ」
そう言いながら、彼は当然のように屋台へ向かう。
ミレイアが呆れたように肩を竦めた。
「ほらね」
「……なんです?」
「いいえ、なんでもないわ」
意味深に笑われ、リゼは小さく眉を寄せた。
数分後。
戻ってきたアシュレイは、紙袋をそのままリゼへ差し出した。
「今日は林檎らしい」
「……覚えていたんですか」
「何をだ」
「私が、以前これを食べた事です」
アシュレイは少しだけ沈黙した。
「たまたまだ」
真相は分からないが、リゼは紙袋を受け取り、小さく礼を言った。
その様子を見ていたミレイアが、何とも言えない顔で空を見上げる。
「無自覚って怖いわね……」
「何か言ったか」
「別に?」
その日の夕方。解析室には再び静かな時間が戻っていた。
リゼは机へ広げた術式図面を見つめながら、小さく息を吐く。
中央結界の異常は、依然として原因が掴めていなかった。むしろ最近は悪化している。
感情暴走事件の件数も、この一ヶ月で明らかに増えていた。
怒り、不安、悲しみ………。
人々の感情が以前より不安定になっている。
「……おかしい」
ぽつりと呟く。
感情制御式は、感情を抑えるための術式だ。だが現在起きている現象は逆だった。
まるで抑え込まれていたものが、限界を迎えて溢れ出しているような——。
「また難しい顔をしているな」
不意に声が降ってくる。それは紛れもなくアシュレイのものだった。
いつの間に戻ってきたのか、リゼの机へ温かな茶器を置く。
もう最近では、それが自然な習慣になっていた。
「……ありがとうございます」
「今日は素直だな」
「まあ、疲れているので…」
アシュレイが小さく息を吐く。
「今日はもう休め」
「いえ、もう少しだけなので」
そう答えながら再び資料へ目を落とす。
気づけば外は暗くなっていた。窓の外では春の雨が静かに降っている。
リゼは術式を書き込みながら、いつの間にか瞼を閉じていた。
静かな寝息が落ちる。
数十分後。報告書を出し終えたアシュレイが解析室へ戻ってくる。
「……まだいたのか」
返事はない。
顔を上げると、机へ伏せたまま眠っているリゼの姿が見えた。
アシュレイは小さく息を吐く。近づき、起こそうとして、その手は止まった。
眠っているリゼは、普段よりずっと幼く見えた。
感情を消したような無表情もない。ただ静かに眠る、年相応の少女だった。
「…ごめん、なさい……おばあさま」
小さな寝言が落ちると、アシュレイは僅かに目を細めた。
エルシア。厳格な祖母。感情を抑えて生きる魔女たち。
リゼは今も、その全てを背負っている。
しばらく黙って彼女を見つめたあと、アシュレイは自分の外套をそっと肩へ掛けた。
「風邪を引くぞ」
返事はない。
窓の外では、春の雨が静かに降り続いていた。




