episode.09
王都へ来てから三ヶ月が過ぎていた。
春も終わりに近づき、街路には柔らかな風が吹き始めている。以前なら耳障りだった王都の喧騒にも、リゼは少しずつ慣れていた。
その日、中央南区で小規模な感情暴走事件が発生した。
幸い被害は軽微だったが、数名の負傷者が中央医療塔へ搬送されたらしい。
監察局内は慌ただしく人が行き交っている。
「リゼ、この資料を医療塔へ届けてくれる?」
ミレイアが書類を抱えたまま振り返る。
「私は現場確認入るから」
「分かりました」
リゼは素直に頷いた。以前なら、一人で王都を歩くことに僅かな抵抗があった。
だが今は違う。道も覚えた。人波にも少し慣れた。
監察局を出たリゼは、春風の吹く石畳を静かに歩いていく。
中央医療塔は王城近くに建つ白亜の塔でよく目立つ。高く伸びた塔の窓から、淡い光が差し込んでいる。
中へ入ると、消毒用の薬草の香りが鼻を掠めた。
「あの、監察局から来ました」
受付へ資料を差し出すと女性職員は確認して柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。最近増えましたよね、暴走事件」
「……そうですね」
「皆、少しずつ余裕がなくなってるんでしょうか」
そう言って顔を上げた女性が、ふとリゼの胸元を見る。
監察局の徽章、そして淡い銀色の髪。女性は小さく目を丸くした。
「あら……もしかしてあなた、最近監察局へ来た魔女さん?」
「…ええ、おそらく」
「やっぱり!局内で少し噂になってるのよ」
女性はどこか安心したように笑った。
「アシュレイ監察官、最近またここへ来るようになったでしょう?」
リゼは小さく目を伏せる。
“また”。
その言葉が胸に残った。女性は少し懐かしそうに続ける。
「前はよく妹さんのお見舞いに来てたの。でもここしばらく、あまり顔を見なくなってしまって。お仕事が忙しいのかしらってみんなで話してたの」
リゼは静かに息を呑む。
アシュレイの妹。以前、少しだけ話しを聞いたが詳しいことは何も知らない。
女性は「あ、ごめんなさいね」と慌てて笑った。
「引き止めちゃったわね」
「……いえ」
資料を渡し終えたあと、リゼは静かな塔内を歩く。
白い廊下、窓から差し込む春の陽光、薬草の香り。
不思議と、どこか時間の流れが遅い場所だった。
その時、廊下の一番奥で、ふとリゼの足が止まる。
病室の扉が少しだけ開いていた。横には、小さな金属製の名札。
『セシリア・ヴェイン』
リゼは僅かに目を瞬く。
ヴェイン。
アシュレイと同じ苗字だった。
静かに視線を扉の隙間へ向けると、病室には、一人の少女が眠っていた。
淡い茶色の髪、穏やかな寝顔。
まるでただ穏やかに眠っているだけのようだった。
窓辺には小さな花瓶が置かれている。
少し萎れかけた白い花。ベッド脇には読みかけの本も積まれていた。
誰かが、ここへ来ているのだと分かる。
静かな部屋だった。まるで時間だけが止まってしまったように。
リゼは無意識に胸元を押さえる。
「……綺麗な方」
小さく呟いた、その時だった。
背後で扉の開く音がしてリゼが振り返ると、そこにはアシュレイが立っていた。
濃紺の瞳が珍しく驚いたようにこちらを見る。
数秒の沈黙。
やがてアシュレイが低く口を開く。
「なぜここにいる?」
責めているわけではない。けれど予想外だったのだろう。
リゼは少し迷ってから口を開く。
「資料を届けに来ました」
「それは一階の受付だ」
「……少し、迷って」
嘘ではなかった。
アシュレイは数秒黙り込み、それから小さく息を吐く。
「まあ良い。隠している訳じゃない」
その声は、思っていたより穏やかだった。
リゼは静かに病室へ視線を戻す。眠る少女は微動だにしない。
規則正しい呼吸音だけが、静かな室内へ小さく響いている。
「妹さん、ですか」
「ああ。数年前、感情暴走に巻き込まれた」
アシュレイは眠る少女へ視線を向ける。
「正確には、自分で引き起こした側だがな。突然男に襲われて恐怖で魔力が暴走した。以来このままだ」
リゼは思わず息を呑んだ。
アシュレイは病室へ入り、窓辺の花瓶へ目を向ける。少し萎れ始めた白い花を見て、静かに水を替え始めた。
慣れた手つきだった。リゼはその背中を見つめる。
監察局にいる時の彼とは少し違って見えた。
「……以前はよくここへ来ていたと聞きました」
花瓶へ水を注ぐ音が小さく響く。アシュレイはすぐには答えなかった。
「そういう時期もあった」
「今は?」
問いかけたあと、リゼは僅かに目を伏せる。
踏み込みすぎたかもしれない。だがアシュレイは怒らなかった。
ただ静かに花瓶を戻し、眠る妹へ視線を向ける。
「来る意味が分からなくなった」
その言葉は驚くほど淡々としていた。
けれどその静けさが、逆に長い時間を感じさせた。
リゼは小さく息を呑む。アシュレイは感情を表へ出さない。
けれど本当は、この人もずっと苦しんでいたのだと初めて分かった気がした。




