episode.10
夕暮れの王都は、どこか不穏な空気に包まれていた。
定期見回りを終え、アシュレイとリゼは中央区の通りを歩いていた。
春の終わりの風が石畳を抜けていく。
「最近、南区での異常が増えている」
隣を歩きながら、アシュレイが淡々と言う。
「結界の劣化が原因でしょうか」
「まだ断定は出来ないな」
その時だった。不意に、通りの奥から大きな物音が響き、通りの奥から、人々のざわめきが聞こえていた。
叫び声や何かが壊れる音。リゼも大きな違和感を感じ眉を寄せた。
「魔力の流れが乱れています」
空気が震えていた。肌へ張り付くような不快な魔力。王都へ来た初日、偶然遭遇した暴走事件を思い出す。
だが、あの時より明らかに強い。アシュレイは短く舌打ちした。
「近いな」
次の瞬間。路地裏の奥から爆発音が響いた。
悲鳴が上がり、人々が慌てた様子で目の前を横切っていく。
「行くぞ」
アシュレイが低く言う。二人はすぐ現場へ向かった。
向かった現場は酷い有様だった。石畳は砕け、建物の壁には焦げ跡が走っている。
中央には一人の男が立っていた。
荒れ狂う魔力が周囲を歪ませている。
「返せ……!」
男は呻くように叫んでいた。
「俺の金……!」
感情暴走。原因は恋人との金銭トラブルのようだった。別れ話の末、金を持ち逃げされたらしい。
怒りと執着。膨れ上がった感情が魔力へ変換され、制御を失っている。
「またか……」
近くの術師が顔を顰める。最近、この手の事件が増えていた事はリゼも知っていた。
アシュレイは周囲を素早く確認する。
「一般人を下がらせろ」
「はい!」
リゼ達の他にも集まっていた術師たちが動き出す。
その間にも男の魔力は膨れ上がっていく。空気が軋み、リゼは無意識に息を詰めた。
怖い。
そう感じた瞬間、自分の魔力が僅かに揺れた。
「リゼ!制御式を展開しろ。制圧する」
アシュレイの指示にに、リゼははっとする。
すぐに術式を描き始めた。
だが次の瞬間、暴走した男の魔力が一気に弾けた。
「っ——!」
轟音と熱風。視界が白く染まる。
その瞬間、誰かに強く引き寄せられた。
「リゼ!」
気づいた時には、リゼはアシュレイの腕の中にいた。
アシュレイはリゼを庇うように抱き寄せ、そのまま崩れた壁の破片を受け止めていた。
何度か鈍い音が響いて周囲がざわつく。
「アシュレイ監察官!」
周囲の助けがあって瓦礫が取除れると、目の前の光景にリゼは目を見開いた。
彼の腕や頭からは血が流れていた。
それを見た瞬間、胸の奥が強く揺れる。
怖い。嫌だ。
その感情が、一気に押し寄せた。呼吸が浅くなり、魔力が不安定に波打つ。
その不穏な気配を感じ取った周囲の術師たちがはっと顔を上げた。そしてそれは、アシュレイも感じ取っていた。
「リゼ、落ち着け」
アシュレイの低い声が響く。
「怖がっても良い。飲み込まれるな」
真っ直ぐな濃紺の瞳がこちらを見る。その声に、リゼは強く唇を噛んだ。
大きく深呼吸をして呼吸を整える。揺れる感情を、無理に消せそうにはない。ただ押し流されないように、必死に耐える。
やがて少しずつ魔力が落ち着いていった。
周囲の空気も静まっていく。
リゼは小さく息を吐いた。その直後、アシュレイの腕から再び血が滴るのが見えた。
「……怪我を」
「問題ない。この程度なら浅い」
即答だった。だがどう見ても浅くはない。
それでもアシュレイはリゼを庇ったまま前へ出る。
「制御式を維持しろ」
低い声が飛ぶ。リゼははっと息を呑み、崩れかけていた術式を立て直した。
淡い光が暴走した魔力を包み込む。
周囲の術師たちも一斉に拘束術式を展開した。
「対象を固定!」
「このまま制圧します!」
男はなおも叫び続けていたが、膨れ上がっていた魔力は制御魔法により少しずつ弱まっていく。
しばらくすると男は気を失い、その場へ崩れ落ちた。
張り詰めていた空気が僅かに緩む。周囲の術師たちが安堵の息を漏らした。
だが。
「被害確認を急げ。負傷者の搬送も——」
アシュレイは止まらなかった。血の滲む腕のまま現場へ指示を飛ばしていく。
その姿を見た瞬間、リゼの胸の奥が再び強くざわついた。
リゼは無意識にアシュレイの服の裾を掴んでいた。
「……休んでください」
気づけば、そう口にしていた。アシュレイが僅かに振り返る。
「まだだ。怪我人が残っている」
「あなたも怪我人です」
自分でも驚くほど、強い声だった。周囲の術師たちが静かに目を見開く。だがリゼは構わずアシュレイの腕に視線を向けた。
「……まだ、血が出ています」
一瞬、周囲が静まり返る。誰もが驚いたように二人を見ていた。
“エルシアの魔女”が、こんな感情を露わにすることなど今までなかったからだ。
アシュレイもまた、珍しく言葉を失っていた。
服の裾を掴む細い指先。揺れる銀色の瞳。リゼ自身、おそらく無意識なのだろう。
数秒の沈黙のあと、アシュレイは小さく息を吐いた。
「……分かった」
聞き慣れた、低い声だった。
その瞬間、周囲の術師たちが一斉に安堵した空気になる。
「医療班を呼びます!」
「こちらの処理は引き継ぎますので!」
再び、慌ただしく人が動き始める。
その空気の中で、リゼだけがまだアシュレイの服を掴んだままだった。
「リゼ」
低い声に呼ばれ、はっとする。そこでようやく、自分が彼の裾を握っていたことに気づいた。
「……すみません」
慌てて手を離す。
「いや、良い。お前が無事で良かった」
あまりにも自然に告げられたその言葉に、リゼは僅かに目を見開く。
胸の奥が、また小さく揺れた。先ほど暴走しかけた感情とは違う、熱を持つような、知らない感覚。
「……リゼ?」
黙り込んだ彼女を不思議に思ったのか、アシュレイが小さく眉を寄せる。
リゼははっとして視線を逸らした。
「いえ……何でもありません」
そう答える声が、少しだけ掠れていたことに本人だけが気づいていなかった。




