episode.35
ここ数日、リゼの様子がおかしい事にアシュレイは気づいていた。
何か言いたげにこちらを見ては、口を閉ざす。話しかけてきたと思えば、途中で黙る。
アシュレイは最初こそ気にしていなかったが、それが三日も続けば流石に異変を察する。
そして何より――その表情が、あまりにも思い詰めているように見えて気になっていた。
まるで、“言わなければならない何か”を抱え込んでいるような。
一度目は、任務帰りだった。
夜風が吹き抜ける石畳を並んで歩いていた時、不意にリゼが立ち止まる。
「あの……アシュレイ様」
呼ばれて振り返ると、リゼは珍しく真剣な顔をしていた。
アシュレイは静かに続きを待つ。だが。
「…………」
リゼは数秒固まった後、何故か視線を逸らした。
「……今日の報告書ですが」
「ああ。俺が出そう」
「……そう、ですか」
そのまま会話は終わってしまった。
リゼは普段、必要以上に言葉を濁す性格ではない。むしろ言うべき事は淡々と口にする。
そんな彼女が、何かを言おうとして飲み込んだ。
アシュレイは小さく眉を寄せる。だが、その時はまだ深く考えなかった。
二度目は執務室だった。
机へ向かい書類へ目を通していると、向かい側から小さな声が聞こえた。
「……あの」
「何だ」
リゼはぎこちなく口を開く。
「今、お時間ありますか……?」
「ああ」
だがリゼは何故か固まった。そして徐々に顔が赤くなる。
「…………」
「リゼ?」
「あ、えと……紅茶のおかわり、要りますか」
「………ああ」
リゼは無言で俯いた。
アシュレイは手を止める。やはりおかしい。
ここ数日、何かを切り出そうとしているのは間違いない。
リゼは基本的に感情表現が苦手なだけで、肝心な場面では逃げない人間だ。
その彼女が、何度も口を閉ざしている。
どうしてそこまで言いづらそうにするのか。アシュレイには一つ心当たりがあった。
――帰りたいのか。エルシアへ。
その考えが浮かんだ途端、胸の奥が重く沈んだ。
結界は既に安定している。リゼが王都へ留まる理由は、もう無い。
いつ帰ると言い出しても不思議ではなかった。
むしろ遅いくらいだろう。
それでも、アシュレイは気づかないふりをしていた。リゼがこの事を自分の口から言い出すまでの数日、いや数時間でも長く彼女を繋ぎ止めたおきたいという情けない心情がアシュレイを支配している。
そして三度目。その時は思っていたよりも早くやってきた。
夜。執務室には静かな魔導灯の光だけが落ちていた。
アシュレイが書類を閉じる音が響く。
その瞬間、不意に視線を感じ、顔を上げればリゼが真っ直ぐこちらを見ていた。
覚悟を決めたような視線。けれど、その指先は小さく震えている。
アシュレイは静かに息を吐いた。
「……何だ」
低い声に、リゼの肩がぴくりと揺れる。
「アシュレイ様」
呼ぶ声まで少し硬い。
アシュレイはここまでかとため息混じりに立ち上がると、ゆっくりリゼの方へ歩み寄った。
その間にも、リゼは何度も唇を開いては閉じている。
言えない。
そんな空気が痛いほど伝わってきた。それと同時に、アシュレイの考えは確信へ変わっていく。
やはり、帰るのだ。
この顔は、別れを切り出そうとしている顔なのだろう。
胸の奥が鈍く痛む。
けれど、それを表へ出すつもりはなかった。リゼが選ぶその意思を尊重したい。
アシュレイは彼女の目の前で立ち止まる。
「リゼ……。俺を含めて、ここにいる者達に恩を感じる必要はない」
その言葉に、リゼがはっと顔を上げた。
アシュレイは静かに続ける。
「むしろ世話になったのは俺たちの方だからな」
リゼの表情が凍りつく。
「え……」
呆然とした声に対して、アシュレイは僅かに視線を伏せた。
「エルシアに帰るなら、こちらでも出来ることを工面しよう」
責める響きは無い。ただ、静かに受け入れようとしている声音。
その表情を見た瞬間、リゼの胸がぎゅっと締め付けられた。
違う。そうじゃない。
帰りたい訳じゃない。離れたい訳でもない。
むしろ逆だ。
だから、こんなに言えなかったのに。
「わ、私……っ」
慌てて声を上げる。
アシュレイが顔を上げた。
リゼは真っ赤な顔のまま、ぎゅっと指先を握り締める。
心臓がうるさい。
逃げてしまいたい。けれど、ここで逃げたらきっともう言えないだろう。
ミレイアの言葉が脳裏を過る。
――“自分がどうしたいか”で考えなさい。
リゼは小さく息を吸った。
「……エルシアへ」
その瞬間、空気が張り詰める。
アシュレイの灰色の瞳が静かに細められた。
リゼは俯きそうになるのを堪えながら、震える声で続ける。
「……一緒に、ついて来て頂けませんか」
沈黙が続き、リゼは恐る恐る顔を上げた。
目に映るアシュレイはいつも通りの涼しげな顔をしていた。
「ああ、もちろん送り届けよう。里長への礼もあるからな」
「!?」
伝わっていない。なぜ、伝わらないのか!
リゼはこれまでの人生で一番の勇気を出したと言うのに、全くもってその意味が伝わっていなかった。
リゼの脳は緊張で沸騰ギリギリ……いや、すでに湧いてしまっている。
「ち、違います……!」
リゼは震える指先を握りながら、必死に言葉を続けた。
「そうじゃなくて!!エルシアでは、外の方を伴侶として迎える場合、里へ招く必要があって……!」
そこまで言った瞬間、アシュレイの表情が止まる。
リゼも、自分が何を口走ったのか理解して固まった。
長い静寂の中、自分の心臓の高鳴りだけが聞こえてくる。
泣きたい訳ではないのに、なぜかリゼの目に涙が溜まって来ていたその時、アシュレイが深く息を吐いた。
片手で顔を覆っていて表情が上手く見えない。
「……お前は」
低い声。けれどその奥に、酷く安堵したような響きが混ざっていた。
「本当に、人を振り回す天才だな」
「……え」
意味が分からず瞬きをするリゼへ、アシュレイは苦笑したまま顔を上げる。
その灰色の瞳は、どうしようもないほど優しかった。
「……俺はお前に、里に帰ると言われる覚悟までしていたんだが」
「…………え?」
リゼは呆然と目を見開く。そんな事はこれっぽっちも考えていなかった。
だがアシュレイは、そんな彼女を見て小さく笑う。
「伴侶として迎えるには里に招く必要がある、か」
「なっ……!?」
その一言だけでリゼの顔に熱が集まる。勢いで言ってしまったとは言え、ありったけの勇気を出して伝えたのだ。それをわざわざ言い直すなんて、何と言う男なのだろう。
リゼは恨めしい気持ちを持ちつつアシュレイを睨みつけた。
だがアシュレイは気にする素振りはなく、むしろ上機嫌に笑みを浮かべた。
「……お前が望むなら、俺はどこへでも行く」
その言葉に、リゼはもう何も返せなかった。




