episode.33
礼拝堂の外へ出ると、夜風が火照った頬をゆっくりと撫でていった。
王都の空には淡い魔導灯が浮かび、石畳へ柔らかな光を落としている。それでも、リゼの胸はまだ落ち着かなかった。
誓いのキス。
“これから先を一緒に生きる”という宣言。
そして――無意識に重ねてしまった、アシュレイの姿。
「……っ」
思い出しかけて、慌てて頭を振る。
駄目だ。考えた瞬間、また顔が熱くなる。
「リゼ」
低い声がすぐ後ろから落ちてきて、リゼの肩が跳ねた。振り返れば、いつの間にかすぐ近くまで来ていたアシュレイがこちらを見ている。
灰色の瞳が静かに細められた。
「セシリアが騒いでいたが、何かあったのか」
「……いえ、何でも………」
反射的に視線を逸らすリゼの様子を、アシュレイは見逃さなかった。
「顔が赤いな。人酔いでもしたか?」
「いえ、大丈夫です。本当に……」
「ならいいが」
短い返事。なのに、灰色の瞳はまだこちらを見ている。
まるで逃がす気がないみたいで、リゼは耐えきれず視線を逸らした。
そんな彼女を見つめながら、アシュレイはわずかに眉を寄せる。
「……お前、また俺を避けてるな」
その言葉に、リゼは勢いよく顔を上げた。
「避けてません!」
リゼの勢いに、アシュレイが一瞬だけ目を瞬く。リゼはそこで、自分が思った以上に強く否定した事へ気づき、慌てて視線を落とした。
「その……避けている訳では、なくて……」
「なら何故目を逸らす」
淡々とした問いだった。責める口調ではない。ただ純粋に分からないから聞いている、そんな声音。
だからこそ余計に困る。
“あなたとの誓いのキスを想像してしまいました”など、絶対に言える訳がなかった。
リゼはぎゅっと口を閉ざすと沈黙が落ちた。遠くでは、まだ礼拝堂から祝いの音楽が聞こえてくる。
その音を聞きながら、リゼは小さく息を吐いた。
「エルシアでは、結婚はそれほど重要では無かったので、私には必要がないものだと思っていました」
アシュレイは静かにリゼを見る。
「ずっと疑問だったんだが、エルシアではどうやって子供を産むんだ?血を残そうと言う意思はあるんだろう?」
その問いにリゼは「はて?」と首を傾げた。
「子を孕んだら十月お腹の中で育てて産みます。皆さんと同じかと思いますけど……」
「いや、そうではなく…。エルシアの魔女は結婚を必要としないと言うが、それならそもそもどうやって子を孕むんだ?」
ああ、なるほどとリゼはやっと質問の意図を理解した。アシュレイは子供の産み方を知りたい訳ではなく、その手前の段階を知りたいらしい。
「里の外から子種を頂く事が多いです。里の中だけだと血が濃くなりすぎて良くないとかで……」
リゼは当たり前のようにそう答えた。だが、向かいに座るアシュレイは何故か沈黙している。
「……?」
リゼは首を傾げた。
「どうかしましたか?」
アシュレイは片手で額を押さえ、小さく息を吐く。
「いや……想像以上だった」
「何がです?」
「お前達の価値観がだ」
その声には珍しく疲労が滲んでいた。
リゼはますます分からなくなる。エルシアではごく普通の話だ。
血を守るため。魔力を安定させるため。子を残す事は里全体で行うものだった。
だから誰か一人と“生涯を誓う”という発想自体が薄い。
「ですが、特に問題はありませんよ」
リゼは静かに続ける。
「子供は里全体で育てますし、皆家族みたいなものですから」
アシュレイは黙ったままだった。
その沈黙に、リゼは少しだけ困惑していると、アシュレイが低く呟いた。
「……つまりお前は」
「はい?」
「相手が誰でも構わないのか」
リゼは瞬きをする。
「相手、ですか?」
「子の父親だ」
ああ、とリゼは納得した。
「……以前は、誰が相手でも同じだと思っていました」
言い終えた瞬間、空気が止まった。
リゼが小さく視線を逸らすと、向かいに座るアシュレイが静かに目を細めた。
「……今は違うのか」
低い声に、リゼの肩がぴくりと揺れる。
「それは……」
答えに詰まる。
誰でも同じ。本当にそうなら、こんなふうに一人の事ばかり考えたりしない。
だけど、彼の人生を縛り付ける事が、本当に正しいのかは分からなかった。
エルシアでは、“誰か一人を選ぶ”という感覚は薄い。
共に過ごす事はあっても、それは緩やかな繋がりでしかなく、相手の人生を独占するものではなかった。
だから結婚という形は、リゼにとってあまりにも重い。
“これから先を一緒に生きる”
その言葉は温かくて、眩しくて――同時に、恐ろしくもあった。
もし、アシュレイが自分以外の誰かを選ぶ未来があったなら。その可能性まで奪ってしまう事になるのではないか。
そこまで考えた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……っ」
自分で考えたくせに、苦しい。リゼは俯いたまま、ぎゅっと指先を握る。
すると、不意に低い声が落ちてきた。
「何かあるなら言ってくれ」
顔を上げる。そこには珍しく困ったような笑みを浮かべてこちらを見るアシュレイがいた。
その表情を見た瞬間、胸の奥が苦しくなる。
アシュレイはいつだって優しい。だからこそ、怖い。
リゼは俯いたまま、小さく唇を噛んだ。
「……私は」
声が震える。
「あなたの人生を、奪いたくないんです」
夜風が静かに吹き抜けた。
アシュレイの表情が止まる。リゼは視線を落としたまま続けた。
「結婚って、“これから先を一緒に生きる”って事なんですよね」
指先が小さく震えている。
「もし私が結婚を望んだら、アシュレイ様の人生を、私に縛り付けるって事じゃないですか」
リゼは俯いたまま、震える声で続ける。
「私は、それが正しい事なのか分からなくて……」
沈黙が落ちた。
返事はすぐには来なかった。その静けさが怖くて、リゼはさらに視線を落とす。
すると、不意に目の前へ影が差した。
顔を上げると、いつの間にかアシュレイがすぐ近くまで来ていた。
灰色の瞳が真っ直ぐこちらを見下ろしている。
逃げ場がない。
「……あの…?」
低く、小さな吐息が落ちる。
「お前は、どうしてそういう考え方になる」
「え……」
「縛られる?」
アシュレイは僅かに眉を寄せた。まるで、その言葉自体が理解できないみたいに。
「俺は、自分の意思でここにいる」
リゼの心臓が大きく跳ねる。アシュレイは視線を逸らさない。
「誰を選ぶかも、どこに居るかも、俺が決める事だ」
静かな声だった。けれど、その一言一言が胸へ深く落ちてくる。
そして、ほんの少しだけアシュレイの目が細められる。
「俺は、お前以外を選ぶつもりはない」
息が止まった。
その言葉が、あまりにも真っ直ぐで。あまりにも迷いがなくて。
リゼの胸の奥まで熱く焼いていく。
今までずっと、“面倒見が良くて優しい人”なのだと思っていた。
けれど違う。
この人はずっと前から、本気で自分との未来を見ていたのだと――ようやく理解してしまった。




