episode.30
監察局へ緊急警報が響いたのは、深夜だった。
赤い術式灯が廊下を染め、静かだった局内へ一気に緊張が走る。局員達が慌ただしく駆け抜け、次々と報告が飛び交っていた。
「北西区画にて大規模暴走を確認!」
「結界の綻びが急速に拡大しています!」
その言葉に、空気が張り詰める。
監察局長クロードはすぐに立ち上がった。
「第一班は住民避難を最優先!他は綻び発生地点へ向かえ!」
局員達が一斉に動き出す。
リゼもその後を追おうとした、その時だった。
「いよいよだね」
静かな声が響く。不思議なくらいよく通る声に、その場にいた全員の動きが止まった。
振り返った先――監察局の入口には、セレスとその護衛官がいた。
白銀に近い灰色の髪。雪みたいに白い肌。
静かな瞳だけが、長い長い時を見てきた者の色を宿している。
クロードがわずかに目を見開いた。
「……セレス様」
セレスは窓の外を見上げる。
王都を覆う結界が、夜空の中で不安定に揺らめいていた。
薄い硝子へ小さなひびが入ったみたいに、ところどころ光が乱れている。
やがてセレスは静かに口を開いた。
「僕も行こう」
室内が静まり返る。
王家の継承者であるセレスが、自ら前線へ出る事など滅多にない。
だがセレスは穏やかなまま続けた。
「これはきっと、“最後の綻び”だから」
その声音は静かだった。
けれど何故か、長い長い時間を経て、ようやく終着点へ辿り着こうとしているみたいに聞こえた。
リゼは小さく息を呑む。
最後の綻び。
それはつまり――白の魔女の結界が、本当の限界を迎えようとしているという事だ。
隣では、アシュレイが静かに剣へ手を掛けていた。
灰色の瞳が真っ直ぐ前を見据えている。
その横顔を見るだけで、不思議なくらい胸が落ち着いた。
だが、以前のように魔力が溢れる事はない。
アシュレイの気持ちを知ってから、胸の奥に灯った熱は、静かにそこに在り続けている。
リゼの心を、守るように。
やがて一行は北西区画へ到着する。
その瞬間、リゼは小さく息を詰めた。
空気が重い。
まるで街全体へ、誰かの苦しみが沈殿しているようだった。
頭上の結界は淡く揺らぎ、薄く綻び始めている。
通りには人影が少なく、遠くでは怒鳴り声や泣き声が響いていた。
「ここでは三日前から感情暴走が急増しています」
同行していた局員が険しい顔で報告する。
「些細な口論から暴力沙汰へ発展する事例も……」
クロードが周囲を見回した。
「結界の綻びが、悪影響を与えているのか」
その言葉に、リゼは静かに目を伏せる。
怒り、悲しみ、孤独……。
行き場を失った感情が、この場所へ溜まり続けている。
深刻な状況に黙り込む監察官を前に、口を開いたのはセレスだった。
「……この先に古い礼拝堂があるんだ。案内しよう」
向かった先には、確かに古い礼拝堂があった。
建物の周囲には黒い魔力が広がり、結界の綻びが目に見えるほど濃くなっている。
空気が軋む。
クロードが低く呟いた。
「綻びが深い……」
その隣で、セレスだけは静かに礼拝堂を見上げていた。
「白の魔女は、いずれこんな日が来る事も予測していた。彼女は、自分の行いが正しいとは思っていなかったからね」
全てを知る、セレスの言葉に、誰も返事はできなかった。
やがて礼拝堂の扉が開かれると、ぶわり、と濃密な魔力が溢れ出した。
局員達が顔を歪める。
床一面へ黒い魔力が広がり、その中央には巨大な結晶が浮かんでいた。
まるで心臓のように脈動している。そして同時に、無数の感情が流れ込んできた。
『苦しい』『怖い』『誰も分かってくれない』
頭の奥へ直接響く声に、局員達が思わず耳を押さえる。
「っ……!」
「感情干渉か……!」
だがリゼだけは、その声から耳を逸らせなかった。
感情を閉じ込め続ける世界で、誰にも吐き出せないまま溜まっていた人々の感情。
それらを前に、セレスが静かに問う。
「君は、どうする?」
リゼは淡く光を放つ結晶を見つめる。
白の魔女は、封じる事を選んだ。拒絶し、閉ざし、切り離した。
けれど、それはきっと彼女が望んだ世界では無い。
「……消したくありません」
その言葉に、アシュレイがわずかに目を細める。
リゼは続けた。
「苦しいも悲しいも、楽しいも嬉しいも、無かった事にはしたくない」
胸の奥が熱を帯びる。
恐怖心はある。それでも逃げたくなかった。
「感情は、人を壊すだけじゃないから」
その瞬間、核が激しく脈打った。
黒い魔力が一気に膨れ上がり、礼拝堂全体が揺れた。
「リゼ!」
アシュレイの声。けれどリゼは下がらない。
感情が流れ込んで来て、胸が押し潰されそうになる。耐えきれず視界が揺れた、その瞬間だった。
不意に、手を掴まれる。
「……っ」
振り返ると、アシュレイがすぐ傍にいた。灰色の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
「一人で抱えるな」
低い声だった。
「お前はもう、一人じゃないだろ」
その言葉が胸へ落ちた瞬間、張り詰めていた何かが、ふっとほどける。
溢れ込む感情は消えない。苦しみも、悲しみも、確かに存在している。
それでも。
誰かが隣にいてくれるだけで、人は壊れずに立っていられるのだ。
ぶわり、と柔らかな銀色の光が溢れ出す。
以前のような不安定な光ではない。淡く温かな雪のような魔力が、静かに礼拝堂いっぱいへ舞い広がっていく。
それはまるで、凍りついた世界へ降る優しい雪のように降り積もり、黒い魔力が触れるたび、少しずつ形を失っていく。
怒りも、悲しみも、苦しみも消えるわけではない。けれど静かに溶け、和らいでいく。
セレスがその光を見つめ、そっと目を細めた。
「……やっと、君の夢が叶うよ。ルシエ」
安堵したみたいな声だった。
白の魔女が辿り着けなかった答え。感情を閉ざすのではなく、誰かと分かち合い、支え合う事。
それが今、目の前にあった。
やがて結晶の脈動が、ゆっくり静まっていくのと同時に、王都を覆っていた結界が淡く揺れた。
誰もが息を呑む。
そして次の瞬間、綻びだらけだった結界の光が、静かに姿を変えた。
今までの冷たい膜ではなく、柔らかく、温かな光。
まるで夜明け前の空みたいな色へ変わっていく。
局員達が呆然と空を見上げ、その様子にクロードでさえ言葉を失っていた。
リゼは舞い落ちる魔力を見つめながら、小さく息を吐く。
すると隣から、アシュレイの低い声が落ちた。
「……また無茶な事を」
叱るみたいな声。けれど、その手はまだ離れていなかった。
リゼが顔を上げると、灰色の瞳が、以前よりずっと近くに感じた。
胸の奥がじわりと温かくなる。
やがて舞い上がっていた魔力が、静かに空へ溶けていく。
綻びだらけだった結界は、安定した穏やかな光を宿していた。
それを見上げながら、セレスは小さく目を細める。
「……これでようやく、終わりだね」
その声音はどこか安堵していた。長い長い時間を経て、ようやく辿り着いた答えを見るみたいに。
リゼはそっと空を見上げる。
冷たかったはずの夜空は、不思議なくらい穏やかだった。
すると、不意に隣の手が軽く触れる。振り向けば、アシュレイが静かにこちらを見ていた。
何も言わない。けれど離れるつもりもないらしい。
その熱に、リゼは小さく目を細めた。
胸の奥へ灯った光は、もう不安定に揺れる事はない。
まるで静かな灯火みたいに、確かにそこに在り続けていた。




