表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/39

episode.30



監察局へ緊急警報が響いたのは、深夜だった。


赤い術式灯が廊下を染め、静かだった局内へ一気に緊張が走る。局員達が慌ただしく駆け抜け、次々と報告が飛び交っていた。


「北西区画にて大規模暴走を確認!」

「結界の綻びが急速に拡大しています!」


その言葉に、空気が張り詰める。


監察局長クロードはすぐに立ち上がった。


「第一班は住民避難を最優先!他は綻び発生地点へ向かえ!」


局員達が一斉に動き出す。


リゼもその後を追おうとした、その時だった。


「いよいよだね」


静かな声が響く。不思議なくらいよく通る声に、その場にいた全員の動きが止まった。


振り返った先――監察局の入口には、セレスとその護衛官がいた。


白銀に近い灰色の髪。雪みたいに白い肌。


静かな瞳だけが、長い長い時を見てきた者の色を宿している。


クロードがわずかに目を見開いた。


「……セレス様」


セレスは窓の外を見上げる。


王都を覆う結界が、夜空の中で不安定に揺らめいていた。


薄い硝子へ小さなひびが入ったみたいに、ところどころ光が乱れている。


やがてセレスは静かに口を開いた。


「僕も行こう」


室内が静まり返る。


王家の継承者であるセレスが、自ら前線へ出る事など滅多にない。


だがセレスは穏やかなまま続けた。


「これはきっと、“最後の綻び”だから」


その声音は静かだった。


けれど何故か、長い長い時間を経て、ようやく終着点へ辿り着こうとしているみたいに聞こえた。


リゼは小さく息を呑む。


最後の綻び。


それはつまり――白の魔女の結界が、本当の限界を迎えようとしているという事だ。


隣では、アシュレイが静かに剣へ手を掛けていた。


灰色の瞳が真っ直ぐ前を見据えている。


その横顔を見るだけで、不思議なくらい胸が落ち着いた。


だが、以前のように魔力が溢れる事はない。


アシュレイの気持ちを知ってから、胸の奥に灯った熱は、静かにそこに在り続けている。


リゼの心を、守るように。


やがて一行は北西区画へ到着する。


その瞬間、リゼは小さく息を詰めた。


空気が重い。


まるで街全体へ、誰かの苦しみが沈殿しているようだった。


頭上の結界は淡く揺らぎ、薄く綻び始めている。


通りには人影が少なく、遠くでは怒鳴り声や泣き声が響いていた。


「ここでは三日前から感情暴走が急増しています」


同行していた局員が険しい顔で報告する。


「些細な口論から暴力沙汰へ発展する事例も……」


クロードが周囲を見回した。


「結界の綻びが、悪影響を与えているのか」


その言葉に、リゼは静かに目を伏せる。


怒り、悲しみ、孤独……。


行き場を失った感情が、この場所へ溜まり続けている。


深刻な状況に黙り込む監察官を前に、口を開いたのはセレスだった。


「……この先に古い礼拝堂があるんだ。案内しよう」


向かった先には、確かに古い礼拝堂があった。


建物の周囲には黒い魔力が広がり、結界の綻びが目に見えるほど濃くなっている。


空気が軋む。


クロードが低く呟いた。


「綻びが深い……」


その隣で、セレスだけは静かに礼拝堂を見上げていた。


「白の魔女は、いずれこんな日が来る事も予測していた。彼女は、自分の行いが正しいとは思っていなかったからね」


全てを知る、セレスの言葉に、誰も返事はできなかった。


やがて礼拝堂の扉が開かれると、ぶわり、と濃密な魔力が溢れ出した。


局員達が顔を歪める。


床一面へ黒い魔力が広がり、その中央には巨大な結晶が浮かんでいた。


まるで心臓のように脈動している。そして同時に、無数の感情が流れ込んできた。


『苦しい』『怖い』『誰も分かってくれない』


頭の奥へ直接響く声に、局員達が思わず耳を押さえる。


「っ……!」

「感情干渉か……!」


だがリゼだけは、その声から耳を逸らせなかった。


感情を閉じ込め続ける世界で、誰にも吐き出せないまま溜まっていた人々の感情。


それらを前に、セレスが静かに問う。


「君は、どうする?」


リゼは淡く光を放つ結晶を見つめる。


白の魔女は、封じる事を選んだ。拒絶し、閉ざし、切り離した。


けれど、それはきっと彼女が望んだ世界では無い。


「……消したくありません」


その言葉に、アシュレイがわずかに目を細める。


リゼは続けた。


「苦しいも悲しいも、楽しいも嬉しいも、無かった事にはしたくない」


胸の奥が熱を帯びる。


恐怖心はある。それでも逃げたくなかった。


「感情は、人を壊すだけじゃないから」


その瞬間、核が激しく脈打った。


黒い魔力が一気に膨れ上がり、礼拝堂全体が揺れた。


「リゼ!」


アシュレイの声。けれどリゼは下がらない。


感情が流れ込んで来て、胸が押し潰されそうになる。耐えきれず視界が揺れた、その瞬間だった。


不意に、手を掴まれる。


「……っ」


振り返ると、アシュレイがすぐ傍にいた。灰色の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。


「一人で抱えるな」


低い声だった。


「お前はもう、一人じゃないだろ」


その言葉が胸へ落ちた瞬間、張り詰めていた何かが、ふっとほどける。


溢れ込む感情は消えない。苦しみも、悲しみも、確かに存在している。


それでも。


誰かが隣にいてくれるだけで、人は壊れずに立っていられるのだ。


ぶわり、と柔らかな銀色の光が溢れ出す。


以前のような不安定な光ではない。淡く温かな雪のような魔力が、静かに礼拝堂いっぱいへ舞い広がっていく。


それはまるで、凍りついた世界へ降る優しい雪のように降り積もり、黒い魔力が触れるたび、少しずつ形を失っていく。


怒りも、悲しみも、苦しみも消えるわけではない。けれど静かに溶け、和らいでいく。


セレスがその光を見つめ、そっと目を細めた。


「……やっと、君の夢が叶うよ。ルシエ」


安堵したみたいな声だった。


白の魔女が辿り着けなかった答え。感情を閉ざすのではなく、誰かと分かち合い、支え合う事。


それが今、目の前にあった。


やがて結晶の脈動が、ゆっくり静まっていくのと同時に、王都を覆っていた結界が淡く揺れた。


誰もが息を呑む。


そして次の瞬間、綻びだらけだった結界の光が、静かに姿を変えた。


今までの冷たい膜ではなく、柔らかく、温かな光。


まるで夜明け前の空みたいな色へ変わっていく。


局員達が呆然と空を見上げ、その様子にクロードでさえ言葉を失っていた。


リゼは舞い落ちる魔力を見つめながら、小さく息を吐く。


すると隣から、アシュレイの低い声が落ちた。


「……また無茶な事を」


叱るみたいな声。けれど、その手はまだ離れていなかった。


リゼが顔を上げると、灰色の瞳が、以前よりずっと近くに感じた。


胸の奥がじわりと温かくなる。


やがて舞い上がっていた魔力が、静かに空へ溶けていく。


綻びだらけだった結界は、安定した穏やかな光を宿していた。


それを見上げながら、セレスは小さく目を細める。


「……これでようやく、終わりだね」


その声音はどこか安堵していた。長い長い時間を経て、ようやく辿り着いた答えを見るみたいに。


リゼはそっと空を見上げる。


冷たかったはずの夜空は、不思議なくらい穏やかだった。


すると、不意に隣の手が軽く触れる。振り向けば、アシュレイが静かにこちらを見ていた。


何も言わない。けれど離れるつもりもないらしい。


その熱に、リゼは小さく目を細めた。


胸の奥へ灯った光は、もう不安定に揺れる事はない。


まるで静かな灯火みたいに、確かにそこに在り続けていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ