episode.29②
リゼは息を詰めたまま、何も言えない。
その沈黙の中で、崩れた銀の光は細かな粒となって空気中に留まり、まるで凍った雪が砕けたみたいに、きらきらと静かに散っていた。
アシュレイはその光を見つめたまま、微かに眉を寄せる。
違う。いつもの光ではない。
リゼが安心した時、嬉しそうにした時に溢れる光は、もっと柔らかかった。雪のように静かに舞い、どこか温かさすら感じる光だったはずだ。
けれど今、目の前にあるそれは違う。
冷たく、脆く、壊れかけている。
アシュレイはゆっくりと視線を上げた。
「……お前、何を考えている?」
低い声だった。
だがその声音には、先ほどまでの諦めとは違う色が混じっていた。
リゼの肩が小さく震える。
「何って………」
リゼは弱々しく掠れた声しか出せなかった。
そんな中、アシュレイは数秒黙ったあと、一歩だけ距離を詰めた。
灰色の瞳が真っ直ぐリゼを見る。
「そんな顔をするな」
その瞬間、リゼの呼吸が止まった。
アシュレイもまた、辛そうな表情をしているのが見えて、胸が苦しかった。
だってアシュレイが、自分が離れていく前提で話していたのに。
“困る”と、そう言ったのに。
リゼは俯いたまま、ぎゅっと服の裾を握る。
「……だって、私は……」
小さな声だった。
「私は、アシュレイ様の迷惑になっているんですよね……」
胸の奥が苦しくて、うまく呼吸ができない。
なんとか言葉にしたリゼに対して、アシュレイはぴたりと動きを止めた。
「……は?」
初めてだった。アシュレイが、こんなにも呆気に取られた声を出したのは。
リゼは顔を上げられない。言葉にしてしまったら、本当に終わる気がした。
「だって……」
声が震える。
「離れるなら早く言ってくれって……中途半端に隣にいられる方が困ると……」
言葉を重ねるほど、胸が冷えていく。
やはり、自分は勘違いしていたのだ。
優しくしてくれたのも、気にかけてくれたのも、全部ただの責任感だったのかもしれない。
協力者だから。監視対象だから。エルシアの魔女だから。
けれど自分は、そこへ勝手に期待してしまった。
恋をしてしまった。
その瞬間、また銀色の光が崩れる。
パキッと凍った空気にひびが入るみたいに、細かな粒子が静かに散った。
アシュレイはそれを見つめ、深く息を吐いた。
そして次の瞬間。
「……違う」
低い声が、はっきりと落ち、リゼが小さく肩を揺らした。
アシュレイは一歩、さらに距離を詰める。
「俺は、お前が離れていくと思ったから言ったんだ」
その言葉に、リゼはゆっくり顔を上げた。
濃紺の瞳が、逃がさないみたいに真っ直ぐこちらを見ている。
「お前が、セレスを見ているのかと思って」
静かな声音。
「最近ずっと、あの場所を見ていただろ。ぼんやりして、何か考え込んで……俺を避けているようにも見えた」
リゼは目を見開く。そんな風に思われていたなんて、考えもしなかった。
「俺は、お前がセレスを選ぶなら止めるつもりはなかった」
淡々とした口調だった。けれどその奥に押し込められた感情を、リゼは初めて感じ取る。
「だが、平気ではいられなかった」
アシュレイの声が少しだけ低くなる。その一言で、胸が大きく跳ねた。
「……え」
リゼの思考が止まる。
アシュレイは静かに目を伏せ、そして諦めたみたいに小さく息を吐いた。
「お前が他の男の元へ行くのを、黙って見送れるほど余裕があると思うか?」
回廊が静まり返り、リゼは完全に動けなくなっていた。
心臓の音だけがうるさく、理解が追いつかない。けれど、胸の奥では何かが熱を持って広がっていく。
アシュレイはそんなリゼを見つめながら、ぽつりと続ける。
「迷惑なわけがない。むしろ逆だ」
その声は、驚くほど優しかった。
ゆっくりと、アシュレイの手が伸びる。
逃げる隙を与えないみたいに、けれど壊れ物へ触れるみたいに慎重に、リゼの頬へ触れた。
「本当は、お前が離れていく方が困る」
触れられた瞬間、ぶわりと今度は柔らかな銀色の光が溢れ出した。
先ほどまでの砕けるような光ではない。
雪のように淡く、温かな銀の光が、安心したみたいに静かに舞い上がっていく。
アシュレイが目を細めた。
「……戻ったな」
その声音が少しだけ安堵していて、リゼの胸がさらに熱くなる。
もう隠せない。隠しきれるはずがなかった。
こんな風に触れられて、こんな言葉を向けられて、平気でいられるわけがない。
リゼは震える声で、ようやく小さく呟く。
「……私は」
喉が熱い。けれど、それでも言わなければと思った。
「セレス様の事は、何とも思っていません」
アシュレイが黙って聞いている。
リゼは逃げるみたいに視線を伏せながら、ぎゅっと服を握った。
「考えていたのは、ずっと……」
そこで言葉が止まる。
無理だ。恥ずかしくて、胸が苦しくて、これ以上先が出てこない。
すると不意に、頬へ触れていたアシュレイの手が少しだけ力を込めた。
「リゼ」
低い声。顔を上げると、灰色の瞳がすぐ近くにあった。
その視線は、驚くほど真っ直ぐで。
逃げ場なんて最初からなかったみたいに、静かに熱を帯びている。
「……それ以上、言わなくて良い」
その瞬間、銀色の雪が、夜空へ溢れるみたいに舞い上がった。




