episode.02
馬車がゆっくりと雪道を進んでいく。窓の向こうでは、霧に包まれたエルシアが少しずつ遠ざかっていた。
リゼは黙ったまま、その景色を見つめる。
向かい側では、アシュレイが何かの書類に目を通しており、紙を捲る音だけが静かに響く。
「……名残惜しいか?」
不意に声が落ちる。リゼは視線を外へ向けたまま答えた。
「いえ」
即答だった。迷いのない、いつも通りの声。
だがアシュレイは書類から目を上げないまま、小さく呟く。
「嘘が下手だな」
リゼの指先がぴくりと揺れ、思わず顔を上げた。
アシュレイは変わらず淡々とした顔で書類を閉じた。
「……なぜ、そう思うんですか」
「さっきからずっと窓の外を見ている」
「景色を確認していただけです」
「確認する必要があるほど、不安なのか?」
静かな声だった。
責めるでもなく、探るでもない。ただ自然にそう言われて、リゼは言葉を失う。
不安。
無いと言えば嘘になる。だが、それを感じたとしても、口にしてはいけないものだ。
アシュレイは僅かに目を細める。
「……お前は、無理に平気な顔を作っている時があるようだな」
その瞬間、胸の奥が強くざわついた。
「無理なんて……」
リゼは咄嗟に視線を逸らした。直感的に、これ以上その目を見ていてはいけない気がした。
リゼが小さくため息を吐く。
「……監察官というのは、皆そうやって人を観察するのですか」
誤魔化すように言うと、アシュレイは小さく息を吐いた。
「職業病みたいなものだ」
「迷惑です」
「そうか」
そう言った声が、ほんの少しだけ柔らかかった。
リゼは無意識に胸元を押さえる。鼓動が、妙にうるさかった。
馬車に揺られ、宿場町へ着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
石畳の通りには暖かな灯りが並び、人々の笑い声が絶えず響いている。
リゼは馬車を降り、小さく息を吐いた。
騒がしい。エルシアでは聞くことのない音ばかりだった。
酔った男の大声。店先ではしゃぐ子供。肩を寄せ合って笑う恋人たち…。
感情が、そのまま街に溢れている。
「具合でも悪いか?それとも疲れたか?」
隣を歩いていたアシュレイが低く問う。
「いえ、特には」
反射的に答える。
だがアシュレイは一瞥したあと、淡々と言った。
「顔色が悪い」
「ちょっと人が多いだけです」
「それを疲れていると言う」
返す言葉に迷い、リゼは口を閉ざした。
その時だった。
通りの奥から、甲高い悲鳴が響く。直後、ゴウッと熱風が吹き抜けた。
賑わっていた人々が慌てて逃げ惑う。その先の広場の中央で、一人の青年が炎に包まれていた。
「っ……!なんでだよ……!」
荒れ狂う炎が石畳を焦がしていく。青年の目は血走り、呼吸は乱れていた。
少し離れた場所では、若い女が泣きながら誰かに支えられている。
「落ち着いて、ルーク!」
「近づくな!」
怒声と共に炎が爆ぜたのを見て、リゼはほんの僅かに見開く。
感情が昂った事による魔法の暴走。強い感情に魔力が引きずられ、制御を失う現象。
アシュレイは即座に前へ出た。
「下がっていろ」
低い声と同時に、青白い魔法陣が広場へ展開される。
逃げ遅れた人々を包み込むように障壁が広がった。
青年はなおも叫んでいる。
「お前、あいつと……っ」
視線の先には、女の隣に立つ別の男。震える女が泣きながら首を振った。
「違うの、話を聞いて——」
「うるさい!」
炎が激しく揺れ上がる。それは青年の怒りや嫉妬を表している。裏切られたと思い込んだ感情が、そのまま魔力へ変わっていた。
アシュレイは片手を上げる。
拘束術式。
一瞬で制圧するつもりなのだと分かった。けれど……
「待ってください」
気づけば、リゼは前へ出ていた。その様子を見たアシュレイが僅かに眉を寄せる。
「何をするつもりだ」
リゼは答えず、炎へ近づく。
熱風が頬に届き、周囲がざわめく。
「危ない!」
誰かが叫ぶ声も気にせず、リゼは青年を真っ直ぐ見つめた。
「苦しいんですね」
青年の肩が揺れた。
「……は?」
「大丈夫、まずは気を鎮めて」
リゼの声は静かだった。青年を囲う炎が僅かに揺らぐと、怒りに歪んでいた顔が、少しずつ崩れていく。
「俺は……ただ……」
掠れた声が落ちる。
「好きだった、だけなのに……」
その瞬間、炎がふっと弱まり、リゼはゆっくり青年へ手を伸ばす。
「もう大丈夫です」
まるで子供をあやすような声音だった。
暴れていた魔力が静かに鎮まっていく。
やがて青年はその場へ膝をつき、嗚咽を漏らした。
広場に静寂が落ちる。
リゼは呆然と青年を見下ろした。感情に寄り添うなど、エルシアでは教わっていない。
むしろ避けるべきものだった。それなのに。
「……お前は」
背後からアシュレイの声がして振り返ると、濃紺の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
何かを言おうとしていたようだったが、ふとリゼの腕に赤く火傷をしているのを見つけると、途端に険しい表情へと変わった。
「腕を出せ」
それは今までになく低い声だった。意味を理解したリゼは小さく瞬きをする。
「大した怪我では——」
「いいから」
遮るように言われ、リゼは黙り込んだ。アシュレイは半ば強引にリゼの手首を取る。
思ったより熱を持った指先に、リゼは僅かに肩を揺らした。
火傷は肘の近くまで赤く爛れていた。先ほど炎へ近づいた時についたものだろう。
アシュレイは眉を寄せたまま、小さく舌打ちする。
「……何を考えている」
「放ってはおけませんでした」
「だから怪我をしていい理由にはならない」
淡々とした口調だった。けれど、掴まれた手首は少し強い。
アシュレイはそのまま治癒術式を展開する。青白い光が火傷を包み、じわりと熱を奪っていく。
リゼはその様子を黙って見つめた。こんな風に誰かに怪我を気にされたことなど、ほとんどない。
エルシアでは、痛みも感情も、自分で制御するものだった。
「……監察官は、怪我人の治療まで仕事に含まれているんですか」
誤魔化すように言うと、アシュレイは視線を上げないまま答えた。
「目の前で勝手に死なれると報告書が面倒なんだ」
「この程度じゃ死にませんよ」
「そういう問題じゃない」
その言葉だけ、妙に強く響いた。リゼは僅かに目を見開く。
アシュレイはすぐに手を離した。
けれど先ほどまで触れられていた場所だけが、不思議なくらい熱を残していた。




