episode.28
その日の夜、中々寝付けなかったリゼは監察局の上階テラスに上り、結界越しの夜空を見上げていた。
薄く淡い光の膜が空を包み、その向こう側で星々が静かに瞬いている。
まだ肌寒く感じる夜風がリゼの白銀の髪を揺らすと、リゼは手すりへ軽く触れながら、小さく息を吐く。
今日一日で、あまりにも多くの事を知った。
白の魔女、灯火の魔女、感情と魔力。
そして――。
『今の灯火の魔女の隣には、君がいる』
セレスの声が耳の奥で蘇り、リゼは静かに目を伏せた。
あの時、セレスは確かにアシュレイを見ていた。まるで、ずっと探していた答えを見つけたみたいに。
胸の奥がまた、じわりと熱を帯びる。
最近、この感覚が増えた。アシュレイを見た時、声を聞いた時、触れられた時、無事だと分かった時…。
胸が苦しくなって落ち着かない。けれど同時に、どうしようもなく安心する。
以前もそうだった。
通信が途絶えた瞬間、頭の中が真っ白になり、怖かった。ただ、無事でいてほしいとそれだけを願っていた。
もし、もう会えなくなったら。その想像だけで、息が苦しくなるほど。
リゼはそっと胸元へ触れる。鼓動が少し速い。
静かな夜なのに、自分の心音だけがやけに大きく感じる。
その時、不意にミレイアとの会話が脳裏を過る。
『嫌だったの?』
『……嫌ではありませんでした』
『それはもう、恋かもしれないわね』
あの時は、よく分からなかった。けれど今なら、少しだけ理解できる。
アシュレイといると落ち着く。触れられると安心する。無事でいてほしいし、誰より傍にいてほしいと思う。
そして、もしいなくなってしまったら……そう考えるだけで、胸が痛む。
「……ああ」
ぽつりと声が零れた、その瞬間だった。
ふわり、と銀色の光が、リゼの周囲へ静かに舞い始める。
雪の欠片みたいな淡い光は不思議と温かい。
リゼは小さく目を見開いた。
感情へ呼応するように、魔力が溢れている。けれど不安定ではなかった。
むしろ胸の奥に灯った熱を映すみたいに、優しく揺れている。
銀色の光は夜風へ溶けるように漂いながら、静かに周囲を包み込んでいく。
その光景はどこか幻想的で、まるで心そのものが形になったみたいだった。
リゼはその光を見つめながら、ゆっくり目を伏せる。
ずっと知らなかった感情。エルシアでは必要なかったもの。
けれど王都へ来て、アシュレイと出会って、少しずつ胸の中へ灯っていったもの。
アシュレイの顔が脳裏へ浮かぶ。
灰色の瞳、低い声、自分へ触れる大きな手。
『大丈夫だ。俺はここにいる』
その言葉を思い出した瞬間、胸の奥が苦しいほどに熱を帯びた。
けれど嫌ではないのだ。むしろ、この感情を失いたくないと思ってしまう。
するとまた、銀色の光がふわりと揺れる。
まるでリゼの想いへ応えるみたいに。
リゼは小さく息を呑んだ。
感情によって、人は強くなれる。白の魔女が最後まで信じたかったもの。灯火の魔女へ託したかった希望。
今なら少しだけ、その意味が分かる気がした。
誰かを想う事は、弱さではない。誰かを大切に思うから、人は前へ進める。
その想いが、自分の中にも確かにある。
リゼは静かに空を見上げた。
結界の向こう側には遠い星々が静かに瞬いている。
エルシアにいた頃は、こんな風に夜空を見上げる事もなかった。
感情を必要としていなかったから。
けれど今は違う。胸の奥に、小さな灯火がある。
誰かを想うたびに温かくなる光。
リゼはそっと胸元を押さえた。そして、ようやく理解する。
「……私は」
小さな声が夜風へ溶け、銀色の光が静かに舞う。
「恋をしていたんですね」
その瞬間、不思議なくらい胸の奥が静かになった。
ずっと分からなかった感情へ、ようやく名前がついたみたいに。
ふわり、と。
銀色の雪が祝福するみたいに、夜空へ舞い上がる。
リゼはその光を見つめながら、そっと目を細めた。胸の奥に宿った灯火は、もう消えそうにない。
その時だった。
ふわりと舞っていた銀色の光が、不意に一方向へ揺れたのを感じてリゼが顔を上げると、ベランダの入口に人影が立っていた。
「……起きていたのか」
聞き慣れたその声の持ち主はアシュレイだった。
リゼの心臓が大きく跳ねる。どうしてこんなタイミングで来るのか。
理解したばかりの感情が、一気に胸の奥で暴れ出す。
アシュレイは数歩近づき、ふわりと舞う銀色の光を見上げた。
灰色の瞳が僅かに細められる。
「魔力が溢れている。気になる事でもあるのか?」
責めるような声音ではなかった。むしろ、どこか心配そうで、リゼは咄嗟に胸元を押さえる。
「……問題ありません」
けれど声が少しだけ上擦った。
アシュレイが眉を寄せる。
「本当か?」
近い。ただそれだけで、鼓動が速くなる。
恋を知ってしまった今、以前と同じようにはいられなかった。
アシュレイはそんなリゼを静かに見つめる。やがて、ふっと小さく息を吐いた。
「無理はするな」
そう言って、ごく自然にリゼの髪へ触れる。
優しく、雪を払うみたいに。
その瞬間。ぶわり、と銀色の光が一気に溢れ出した。
「……っ」
リゼは目を見開く。
夜空へ舞い上がる銀色の雪。
感情へ呼応するように、光が止まらない。
アシュレイも僅かに目を見開いたあと、静かに笑った。
「……綺麗だ」
その一言だけで、また胸が苦しくなる。
リゼは思わず視線を逸らした。
知られてはいけない。まだ、この気持ちは。
けれど胸の奥の灯火は、もう隠せないほど温かく燃え始めていた。




