episode.20
監察局の資料室は昼間でも静かだ。積み上がった書類の山を前に、ミレイアは羽根ペンを走らせていた。
「ミレイアさん」
不意に呼ばれ顔を上げると、そこにはリゼが立っていた。
「ん? どうしたの」
「あの……相談があります」
珍しい言葉だった。しかもリゼは少しだけ困ったような顔をしている。
ミレイアは直感した。これは絶対面白いやつだ、と。
「へえ? まあ座りなさい」
向かいを勧めると、リゼは素直に腰を下ろした。
だがすぐには話し始めない。
数秒後、リゼは真面目な顔で口を開いた。
「最近、アシュレイ様の様子がおかしいと思うんです」
ミレイアは危うく吹き出しかけた。
「あー……へえ?」
「以前より距離を取られる事が増えました」
(あー、はいはい。)
「でも時々、すごく近いんです」
(あっ、何かあったわねこれ。)
「あと、目を合わせると逸らされます」
(分かりやすすぎる!思春期か!)
ミレイアは必死に笑いを堪えていた。
「他には?」
リゼは少し迷ってから、静かに続ける。
「実は先日の巡回で、魔力酔いをしてしまって」
「あら」
「その時、アシュレイ様が助けてくださったのですが、距離感がいつもより近くて」
ミレイアの目が細くなる。
「……あと少しで、唇が触れそうでした」
ミレイアは盛大にむせた。
「ごほっ!?」
「ミレイアさん!?大丈夫ですか」
「い、いや待って、情報量が多い」
ミレイアは思わず頭を抱える。あの堅物監察官、ついにそこまで行ったのか。
「それで? どうなったの」
「アシュレイ様が急に離れて…そのまま……」
(あーーーーー…未遂ね)
容易に想像できる。すんでのところで理性が働いたのだ。そういう男だ。
リゼは小さく首を傾げた。
「……あれは何だったのでしょう」
あまりにも真っ直ぐな問いに、ミレイアは少しだけ笑う。
「リゼ。あなた、その時嫌だったの?」
リゼは瞬きをしながら思い返す。
嫌……?
その感覚を考える。
あの時は確か…距離が近くて驚いた。胸が苦しくなった。でも……
「……嫌じゃ、無かったと思います」
その答えは、驚くほどすんなり出た。
ミレイアはふっと笑う。
「いい?リゼ。それはもう、恋しちゃってるのよ」
静かな言葉だった。
その瞬間、リゼの思考が止まる。
「……恋?」
初めて聞くみたいにその言葉を繰り返すと、胸の奥がまた少しだけ騒いだ。
アシュレイといると落ち着く。守られると安心するし離れると苦しい。
なにより、触れそうになったあの時、全く嫌ではなかった。
むしろ――。
そこまで考えた瞬間、リゼはぴたりと止まる。
ミレイアはそんな彼女を見て、面白そうに笑った。
(あーあ。これはもう時間の問題ね)
ミレイアは肩を竦めながら、まだ固まったままのリゼを見る。きっとあの堅物監察官も今頃、同じように頭を抱えているのだろう。
そう思うと、少しだけ可笑しかった。
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深夜の監察局は静まり返っていた。窓の外では弱い雨が降っているようで、雫が滴る音だけが聞こえてくる。
執務室に残っているのは、アシュレイ一人だけだった。
机の上には、地下倉庫から回収された古い記録書が置かれている。
何百年も前のものとは思えないほど丁寧に保管された革表紙。だが中身は異様だった。これは単なる研究記録ではない。
“白の魔女”本人が書き残した手記だった。
アシュレイはゆっくり頁を捲る。
『今日もまた暴走が起きた』
『感情は人を狂わせる』
『愛した者ほど壊れていく』
滲んだ文字は、ところどころ筆圧が強い。
まるで書いた本人の苦しみがそのまま残っているようだった。
『私は多くを失った』
『だから決めた』
『もう誰も、感情で壊れない世界を作ると』
アシュレイの視線が止まり、静かな雨音だけが響く。
白の魔女。王都全体を覆う結界を作り上げた魔法の始祖。
感情を抑制し、魔力暴走を防ぐ今の世界の礎。
ずっと、不安定だった“世界を救った英雄”として語られてきた存在。
だが手記を読めば読むほど、違和感が増していく。これは希望から作られた結界ではない。恐怖から生まれたものだ。
『感情は危険だ』
『愛は人を狂わせる』
『だから、抑え込まなければならない』
『これ以上、失わないために』
その思想が頁の至る所に刻まれている。
アシュレイは無意識に拳を握った。脳裏に浮かぶのは妹の姿だった。
暴走、恐怖、泣き声…。
感情は危険だ。抑え込むべきだ。そう信じてきた。
だが。
アシュレイは次の頁を開く。
そこで初めて、文字が大きく乱れていた。
『――けれど、あの子だけは違った』
空気が変わる。
『あの子は感情を拒まなかった』
『悲しみも、愛も、痛みも受け入れた』
『その時、魔力は暴走ではなく“変化”したのを見た』
アシュレイの指先が止まる。
文字はそこで一度途切れていた。まるで、書き手自身が迷ったみたいに。
そして次の行には、掠れた文字が続いている。
『私は、あの光を美しいと思った』
静かな雨音だけが響く。
『感情は人を壊すだけではないのかもしれない』
『もし、人が痛みごと誰かを受け入れられるなら』
『世界は、違う形へ辿り着けるのかもしれない』
アシュレイの目が僅かに見開かれる。
だが、その次の頁で文字は大きく乱れていた。
『――けれど、遅すぎた』
『多くの人は簡単に感情に呑まれ、愛は容易く憎しみに変わる』
『誰かを救いたいと願った力は、結局人を傷つける』
『私は何度もその姿を見てきた』
インクが滲んでいる。
『だから私は、世界を安定へ閉じ込める』
『いつか、この結界が不要になる日まで』
『いつか、感情を恐れず受け入れられる誰かが現れるまで』
アシュレイの呼吸が止まる。
最後の一文だけ、他よりずっと穏やかな筆跡だった。
『その時こそ、この世界は完成する』
雨音がやけに大きく聞こえた。
アシュレイの脳裏に、銀色の魔力が蘇る。
暴走する人間へ寄り添ったリゼ。感情を否定せず、受け止めた時に起きた変化。
あれは。
白の魔女が封じた“何か”と同じなのではないか。
アシュレイは静かに目を伏せる。もしそうなら、今の結界は、人々を守るためだけではない。
“感情を受け入れる力”そのものを封じ込めるためのものだった可能性がある。
そしてリゼは、その封じられた力へ辿り着こうとしている。
アシュレイは手記を閉じる。胸の奥がざわついていた。
知らなければよかったのかもしれない。だが、もう止まれない。
「……エルシアか」
小さく呟く。
白の魔女と深い繋がりを持つ古い魔女の里。今も過去の記録を保管していると言われている場所。
もし白の魔女の真実を知る者がいるなら、そこしかない。
アシュレイは静かに立ち上がった。
脳裏に浮かぶのは、リゼだった。感情を封じた人形のような少女は、今では感情を受け入れようとしている。
この世界を書き換えてしまうかもしれない存在。
そして、アシュレイ自身が、もうその可能性を恐れるだけではいられなくなっている事に気づいていた。




