episode.15
監察局の資料室は、昼下がりの光に静かに照らされていた。
結界点検の報告書を整理していたリゼは、棚の前で小さく首を傾げる。
「東区画の記録って、こちらで合っていますか?」
「ああ、それなら一つ前の年度の棚ですね」
答えたのは若い魔術師だった。
最近配属されたばかりらしくまだ少しぎこちないが、リゼが礼を言うと、彼は少し照れたように笑う。
「最近の暴走案件、皆ぴりついてますよね…。僕もう怖くて怖くて…」
「……そうですね」
「でも!リゼさんがいると現場、落ち着くっていうか」
不意にそんな事を言われ、リゼはわずかに瞬きをした。
リゼは褒められ慣れていない。どう返せばいいのか迷っていると、魔術師は慌てて続ける。
「あ、すみません、変な意味じゃなくて」
「いえ……ありがとうございます」
小さく返す。
それだけの、何でもない会話だった。本当にそれだけ。
「報告書はまとまったのか?」
静かな声が落ち、空気が一瞬で変わった。
リゼが振り向くと、そこに立っていたのはアシュレイだった。
いつも通りの無表情に淡々とした声。けれど、なぜか室内の温度が少し下がった気がした。
「あ……はい。もう少しで」
「なら急げ。次の点検予定が前倒しになっている」
事務的な口調だった。正しい指示でおかしなところは何もない。
なのに、隣の魔術師が妙に背筋を伸ばしている。
「す、すみません!」
なぜ彼の方が謝っているのか分からず、リゼは小さく首を傾げた。
アシュレイはそれ以上何も言わず、ただリゼへ一瞬だけ視線を向け、すぐに外した。
「五分後に出る」
短く告げ、そのまま資料室を出ていく。
少しの沈黙の後、隣にいた魔術師がおずおずと口を開いた。
「……す、すみません。僕のせいで怒られちゃいました…?」
若い魔術師が困惑したように呟く。リゼは首を傾げた。
「いえ…。そういう訳では無いかと」
リゼも分からない。いつも通りな気もするし、そうでは無い気もする。
ただ、なぜか少しだけ胸がざわついていた。
その時。
「はいはい、かわいそうに」
呆れたミレイアの声が後ろから落ちる。いつの間にいたのか、棚にもたれながらため息をついている。
「……ミレイアさん?」
「いやあ、あれは思ったより重症ね」
何が、と聞く前にミレイアは笑う。
「本当に面倒な性格よね」
「……?」
意味が分からず、リゼは目を瞬かせた。その様子に気づいたミレイアはクスッと笑みを浮かべるだけで、真相を教えてくれるつもりは無いらしい。
「気にしなくていいわ」
ミレイアは肩をすくめる。
「ああ見えて、本人が一番困ってるだろうから」
その言葉の意味を、リゼは全く理解できなかった。
一方その頃。
資料室を出たアシュレイは、廊下の奥で静かに息を吐いていた。
(……何をしているんだ、俺は)
分かっている。先ほどの介入は完全に私情だ。
確かに報告を急がせる必要はあった。だが、あのタイミングで割って入る必要はなかった。
自制が効かなかった。
その事実を認識し、アシュレイは小さく眉を寄せる。
胸の奥が、ひどく落ち着かなかった。
廊下の窓から差し込む西日が、床に長い影を落としていた。
アシュレイはその場を動けないでいた。
次の点検準備もある。確認事項も残っている。頭では理解しているのに、妙に思考がまとまらなかった。
「あははっ!!」
資料室の扉が開く音とほぼ同時に聞こえてきた笑い声に、アシュレイは振り返らない。振り返るまでもなく分かる。
「……何だ」
「いや?別にぃ?」
ミレイアが面白そうに壁へ寄りかかる。
「ただ、“男の嫉妬”って想像以上に面倒だなって思って」
「…………」
アシュレイの眉間に皺が寄る。それを見たミレイアは吹き出した。
「だってあの子、ただ普通に仕事の話してただけじゃない。あんたのせいで、完全に空気変わってたわよ」
「……」
否定できない。それが余計に厄介だった。
ミレイアはわざとらしくため息を吐く。
「でも残念。本人は全然気づいてないわ」
その言葉に、アシュレイの視線がわずかに動く。
「気づいていない?」
「ええ。可哀想に『何かまずい事しましたか?』って顔してたわ」
アシュレイは小さく目を閉じた。胸の奥が重い。リゼを困らせたい訳じゃない。
距離を取ると決めたのも、自分の感情を押し付けたくないからだ。
なのに、感情だけが勝手に先に動く。
「……らしくないわね」
ミレイアは完全に楽しんでいた。
「理性で止めようとしてる分、余計分かりやすいわ」
「黙ってくれ」
「無理無理!だって面白いもの」
アシュレイは深く息を吐く。その時、再び資料室の扉が開く音がした。
反射的に顔を上げると、出てきたのはリゼだった。
書類を抱えたまま、こちらに気づいて足を止める。
ミレイアが横で肩を震わせる。
「ほら見てあの顔。あなたを怒らせたかもしれないと思って怯えてるわ。かわいそうに」
「余計な事は言うな」
低い声で制しながらも、アシュレイは自分の鼓動が乱れるのを止められなかった。




