第9話 良くなった数字と、悪くなった顔
数字は、確かに良くなっていた。
倉庫の残量は安定し、日ごとの誤差もほぼ消えた。
出入りの記録は揃い、誰が見ても分かる形になっている。
帳簿は、ようやく現実の影になった。
「……三日前と比べて、食糧ロスが二割減っています」
マルクスの報告は、正確だった。
「ええ」
私は頷きながらも、視線を数字から外した。
執務室の窓の外。
城下町の通りを歩く人々の足取りは、軽くない。
数字が良くなっても、人の表情が良くなるとは限らない。
「税の徴収状況も、安定しています」
「“安定”ね」
私は、その言葉を繰り返した。
確かに、徴収額は予測通りだ。
だが、それは――融通をやめた結果でもある。
今まで、支払いが遅れた農民には猶予があった。
帳簿の上で調整され、見えない形で吸収されていた。
それを、やめた。
嘘をやめるということは、そういうことだ。
「……不満が、出ています」
マルクスが、言いにくそうに続けた。
「ええ」
それも、想定内だ。
昼前、城下町を歩く。
人々は以前より道を避けない。
だが、声をかけても笑顔は返ってこない。
市場の一角で、エルナが腕を組んで立っていた。
「数字、きれいになったわね」
「ええ」
「その代わり、顔色が悪い人が増えた」
彼女は、視線で周囲を示した。
「商人?」
「半分は」
エルナは、小さく息を吐いた。
「今まで“帳簿に乗らない融通”で回ってた人間が、弾かれ始めてる」
それは、非合法ではない。
だが、合法でもない。
「悪いこと?」
私が尋ねると、彼女は少し考えた。
「……商売としては、健全」
だが、と彼女は続ける。
「生活としては、きつい」
市場の奥で、揉め声が聞こえた。
近づくと、農民と徴税係が言い合っている。
「今月は待ってくれるって話だっただろ!」
「それは、前のやり方です」
徴税係の声は、硬い。
「今は記録が公開されています。例外は作れません」
農民の顔が、歪んだ。
「じゃあ、どうしろってんだ!」
私は、二人の間に入った。
「話を聞かせて」
農民は、私を見て一瞬言葉を失った。
「……あんたか」
敵意と、期待と、諦めが混じった視線。
「今月、何があった?」
「雨だ。畑が半分やられた」
嘘ではない。
空を見れば分かる。
「それでも、今月分は必要だと言われた」
私は、徴税係を見た。
「事実?」
「……はい」
彼は、視線を逸らさなかった。
「例外を作らない、という指示でしたので」
私は、少しだけ目を閉じた。
数字は正しい。
運用も、指示通りだ。
だが――
「……一週間」
私は言った。
「猶予を出す」
徴税係が、驚いたように目を見開く。
「ですが、それは……」
「記録に残す」
私は、はっきり言った。
「理由も、期間も、公開する」
農民が、信じられないものを見るように私を見た。
「……いいのか?」
「いいえ」
私は首を振った。
「良くはない」
それが、本音だ。
数字の整合性は崩れる。
他から不満も出る。
それでも。
「壊れるのは、帳簿だけでいい」
生活まで壊す必要はない。
その場は、それで収まった。
だが、帰り道――マルクスの顔は青かった。
「……例外を作ってしまいました」
「ええ」
「また、元に戻るんじゃ……」
彼の声は、震えている。
私は、足を止めた。
「戻らないわ」
はっきりと言った。
「これは、後戻りじゃない。“運用”よ」
マルクスは、納得していない顔だ。
「数字は、道具です」
私は、彼を見た。
「人を潰すためのものじゃない」
その夜、帳簿を書き直す。
猶予の記録。
理由。
期限。
数字は、少しだけ汚れた。
でも――
「……これでいい」
完璧じゃない。
効率も落ちる。
それでも、これが現実だ。
翌日、噂は広がった。
「融通が復活した」
「結局、前と同じだ」
否定も、期待も、混じった声。
エルナが言った。
「一番嫌われるやり方ね」
「知ってる」
「それでも、やる?」
「やるわ」
私は、帳簿を閉じた。
改革は、綺麗じゃない。
成功は、誰かを削る。
それでも――
削る順番と、削り方は、選べる。
数字が良くなった日。
その裏で、空気は少しだけ重くなった。
だが私は、その重さから目を逸らさない。
これは、通過点だ。
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