第10話 善意は、静かに歪められる
問題は、猶予措置の翌日に起きた。
「……この申請は、却下しました」
マルクスが、そう報告した時点では、まだ小さな違和感だった。
「理由は?」
「先日の猶予と、条件が合致しませんでしたので」
机の上に置かれた申請書を見る。
確かに、条件外だ。
私は、頷いた。
「判断自体は正しいわ」
マルクスの肩が、少しだけ緩む。
だが――
昼過ぎ、執務室の扉が乱暴に叩かれた。
「領主様!」
兵士が、慌てた様子で入ってくる。
「市場で……揉め事が……」
嫌な予感がした。
市場では、人だかりができていた。
「なんで、あいつだけ許された!」
「同じ状況だろうが!」
怒号の中心にいたのは、昨日猶予を受けた農民と、別の農民だった。
「嘘だ! あんたが優遇されてる!」
「違う! 俺は……!」
事態は、すでに感情の段階に入っている。
私は、マルクスを見た。
「却下した申請、誰が判断した?」
「……私です」
彼の声は、かすれていた。
「理由は?」
「条件に合わなかったから……公平に……」
公平。
その言葉が、重く響く。
私は、二人の農民に近づいた。
「申請内容を、聞かせて」
却下された側が、怒りを抑えきれない様子で言った。
「俺だって、雨で畑をやられた! でも“証明が足りない”って!」
昨日猶予を受けた農民が、慌てて首を振る。
「俺は、証明があっただけだ!」
どちらも、嘘ではない。
問題は――
「基準が、見えていない」
私は、静かに言った。
マルクスが、はっとした。
「条件はある。でも、説明していない」
公平に処理したつもりでも、
見えない基準は、差別と同じだ。
「……私が、悪いです」
マルクスが、深く頭を下げた。
「いいえ」
私は、即座に否定した。
「これは、仕組みの問題よ」
私は、人だかりに向き直った。
「説明します」
声を張らず、しかしはっきりと。
「猶予には条件があります。被害の証明、期間、回数」
私は、板に簡単な図を書いた。
「それを、今日から公開します」
ざわめきが、少しだけ落ち着く。
「昨日の猶予は、特別扱いではありません」
私は、昨日の農民を見る。
「条件を満たしていたからです」
怒りの矛先が、少しずれる。
だが――完全には収まらない。
「じゃあ、証明できない奴はどうする!」
その問いは、正しい。
私は、少しだけ間を置いた。
「証明の方法を、増やします」
どよめき。
「村長の証言。共同署名。簡易調査」
完璧ではない。
だが、閉じていた門を少しだけ開く。
人々は、互いの顔を見た。
不満は残っている。
だが、爆発はしなかった。
人だかりが散った後、マルクスは動けずにいた。
「……俺が、壊しました」
声が、震えている。
「良かれと思って……」
「分かってる」
私は、彼の前に立った。
「だから、あなたに任せた」
彼は、顔を上げた。
「人は、ミスをする」
私は、はっきり言った。
「問題は、ミスを隠すこと」
私は、帳簿を取り出す。
「今日の件、全部記録する」
「……え?」
「あなたの判断も、私の判断も」
マルクスの目が、大きく開かれた。
「責任は、私が取る」
それは、命令ではなく、宣言だった。
その夜、帳簿はまた汚れた。
条件。
例外。
説明不足。
だが――
嘘は、書かれていない。
マルクスは、静かに言った。
「……続けられます」
それは、覚悟の声だった。
善意は、放っておくと歪む。
だから、仕組みにする。
この領地は、まだ不安定だ。
だが――
壊れた場所は、見えるようになってきた。
修復は、ここからだ。




