第8話 数字が、初めて噛み合った日
雨が降った。
春先としては珍しく、冷たい雨だった。
畑にはありがたいが、道はぬかるみ、倉庫の出入りは面倒になる。
文句が出てもおかしくない天候だ。
だが、その日――倉庫の前は静かだった。
「……今日の分、記録しました」
マルクスが、板を差し出す。
私は頷き、帳簿と照らし合わせた。
入庫。
出庫。
残量。
――合っている。
ほんの一日分。
誤差が出やすい状況で、完全に一致していた。
「……合いましたね」
マルクスの声が、少し震えている。
「ええ」
私は、数字から目を離さなかった。
理由は明確だ。
昨日、ヨハンが倉庫の裏を見て回った。
雨で地面が柔らかくなり、足跡がはっきり残るからだ。
結果、裏口の板が一枚外れかけているのを見つけた。
そこから、少量ずつ持ち出されていた形跡。
盗み――というより、黙認された“持ち出し”。
咎めなかった。
代わりに、裏口を塞ぎ、正面の出入りだけを記録対象にした。
それだけだ。
「……誰も、怒ってませんね」
マルクスが周囲を見渡しながら言う。
人は、いる。
だが、騒がない。
文句も、野次もない。
「見られている、と思っているからよ」
私は、静かに答えた。
「罰があるからじゃない。見られているから」
透明性は、恐怖よりも強い。
昼過ぎ、エルナが倉庫に現れた。
「数字、合ってるわね」
彼女は、板を一目見て言った。
「ええ」
「偶然?」
「いいえ」
私は即答した。
「仕組みです」
エルナは、少しだけ笑った。
「……面白い」
それは、商人としての評価だった。
夕方、ヨハンも来た。
「今日は、誰も余計なことしてない」
ぶっきらぼうな報告。
「助かったわ」
「礼はいらん」
彼は、空を見上げた。
「雨が降ると、嘘は残りやすい」
私は、その言葉を心に留めた。
日が暮れる頃、帳簿を閉じる。
一日分。
たった一日。
だが――
「……生きてますね」
マルクスが、信じられないものを見るように言った。
「ええ」
私は、初めて微かに笑った。
「今日、この領地は――一日、生き延びた」
奇跡ではない。
英雄的行為でもない。
ただ、嘘を減らしただけだ。
それでも、数字は正直だった。
夜、執務室で一人になる。
帳簿を撫でながら、私は思う。
信頼は、まだ薄い。
敵も、消えていない。
けれど――
「……行ける」
それは、希望ではなく、判断だった。
このやり方なら。
この速度なら。
辺境領レインヴァルトは、
**今日より明日を、生きられる。**




