第15話 切らない、という決断
夜が、明けなかった。
正確には、空は白み始めているのに、執務室の中だけが夜のままだった。
帳簿は開いたまま。
数字は、赤い。
「……もう一度、確認しますか」
マルクスの声は、ひどく落ち着いていた。
限界を越えた人間の、それだ。
「いいえ」
私は首を振った。
「確認しても、数字は変わらない」
現金不足。
入金遅延。
支払い期限。
どれも、事実だ。
「やれることは?」
マルクスが、静かに尋ねる。
私は、即答しなかった。
――“切る”なら、簡単だ。
徴税の強化。
兵を使った回収。
支払いの停止。
どれも、帳簿は回る。
だが、それは“人”を切る選択だ。
「……やらないことは、決まっている」
私は、ゆっくり言った。
「税率は上げない」
「強制徴収はしない」
「帳簿は誤魔化さない」
マルクスが、息を吸う。
「……それ以外で、何が残ります」
「負担を、分ける」
私は、立ち上がった。
「全員で」
朝、鐘を鳴らした。
領民集会。
何度目か分からないが、今度は空気が違う。
疲れている。
疑っている。
だが、逃げてはいない。
私は、壇上に立った。
「現状を話します」
隠さない。
「この領地は、二週間で支払い不能になります」
ざわめき。
「だから、選択します」
私は、板を掲げた。
「支払いの一時延期」
怒号が上がる。
「誰の!」
「兵か!役人か!」
「全員です」
私は、はっきり言った。
静まり返る。
「兵の給金も、役人の給与も、私の取り分も」
それは、暴動を呼びかねない言葉だ。
「延期は、最大三十日」
板に、期限を書く。
「利息はつけません」
「記録は残します」
「回復した分から、順に支払います」
誰かが叫ぶ。
「信じられるか!」
私は、即座に答えた。
「信じなくていい」
その言葉は、もう驚きを生まない。
「だから、見せます」
私は、帳簿を掲げた。
「今日から、支払い順位も公開します」
どよめき。
「誰が、いつ、いくら受け取るか」
逃げ場をなくす。
そして――
「もし、私が最初に受け取ったら」
私は、一拍置いた。
「その時は、追い出してください」
沈黙。
重たい沈黙。
マルクスが、壇上で一歩踏み出た。
「……記録は、私が取ります」
彼の声は、震えていない。
「誤魔化しは、できません」
ヨハンが、腕を組んだまま言った。
「……逃げ道がないな」
「ええ」
私は、頷いた。
「だから、信頼が残る」
完全な納得ではない。
だが、拒絶でもない。
集会は、怒号も拍手もなく終わった。
ただ、人々は散らなかった。
その夜、エルナが言った。
「一番嫌われる選択よ」
「知ってる」
「でも……」
彼女は、帳簿を見た。
「一番、逃げない」
私は、椅子に座る。
数字は、まだ赤い。
だが――壊れてはいない。
「……これで、耐える」
逆転はしない。
勝ちもしない。
ただ――
**潰れない選択を、した。**
切らない。
逃げない。
誤魔化さない。
この領地は、
今日を、生き延びる。
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