2.厄介ごと
「では、このドロシーが、お嬢様のご希望を叶えてみせましょう」
侍女のその言葉を聞いた時、アイリーンの心は春をうたう小鳥のように浮き立った。しかし、それからもう一週間が経とうとしている。約束だからアイリーンは努めて平常にふるまっているが、ドロシーもまたいつも通りで、ダンジョンのことなど一言も触れようとしない。ひょっとして、約束のことをすっかり忘れてしまっているのではないかと心配になる。
「お嬢様」
声をかけられ、アイリーンは息を飲んだ。目の前には、戸惑った表情を浮かべる口髭の男がいた。彼は綿入りの籠手で守られた右の手首をさすっている。
「ごめんなさい、ウィル先生!」
アイリーンはぎょっとして、自分がやってしまったことに気付いた。剣術の地稽古の最中、彼女は師範の手首を鋭く打って、剣を叩き落としてしまったのだ。
「いえ、お見事にございます」
そう言って髭の師範は、足元に落ちた自分の木剣を拾い上げた。
もちろん、普段であればこのようなヘマはしない。アイリーンは、幼い頃から剣術を授けてくれた、この髭の師範が大好きだった。だから、彼の面目をつぶすような真似を、これまで注意深く避けてきたのだ。しかし、今回は迂闊だった。やはりダンジョンのことが気になって、あれこれ散漫になっているようである。
ところが、教え子にやり込められたはずの師範は、なぜかにこにこと上機嫌である。
「やはり私が見込んだ通り、お嬢様は剣の才に秀でておられる。いささか寂しくはございますが、私もそろそろお役御免でしょうか」
そう言ってウィル先生は、まるで懐かしむように練習場をぐるりと見まわした。
中庭の一角にあるそこは、元々あった植栽などを取っ払い、一〇メートル四方の地面を固く平らにならした場所で、剣を習いたいと言い出した一人娘のために、ナバ伯爵が作らせたものだ。アイリーンが背にしている方には屋敷の勝手口があり、他の三方は生垣で囲まれている。
アイリーンはここで、もう五年近くも、ウィル先生の稽古を受けてきた。確かに思い出深い場所ではあったが、懐古に浸るのはまだ早い。ウィル先生にはまだまだ教わるべきことも多いのだ。何より、他のどんな稽古事よりも、剣術はアイリーンのお気に入りだった。勝手に卒業させられては困る。
さて、どうやってウィル先生を師範に引き留めようかと考えていたところで、屋敷の勝手口が勢いよく開かれた。そこから顔をのぞかせたドロシーが、
「お嬢様、旦那様がお呼びです!」
と、まあまあの音声で呼ばわる。
「ドロシー」
ウィル先生が顔をしかめて言った。
「あなたも淑女の端くれなら、もう少しおしとやかにしてはいかがですか」
「失礼ね。端くれじゃなくてど真ん中で淑女よ」
「本当の淑女は兵隊みたいに大声で叫んだりはしません」
おそらくドロシーも、どこかの貴族の次女なり三女なりのはずで、本人が言う通り淑女であることは確かだった。それと言うのも、侍女とは貴族の娘が、花嫁修業や未来の夫を探す目的で就く職業だからだ。彼女たちは常に女主人と行動を共にするので、高貴な身分の殿方の目に触れやすく、また社交界のルールなどを学ぶこともできると言う寸法である。なんなら自ら花婿を捕まえて、早々に職を辞する侍女も少なくない。ただしアイリーンのように、周囲から結婚相手を決められてしまう大名家の長女は別である。
「要件は聞いてる?」
子供の喧嘩のような言い争いに割り込み、アイリーンは言った。
「いえ。ただ、書斎まで来るようおっしゃってました」
「わかったわ」
アイリーンは一礼をくれてから木剣をウィル先生に押し付け、稽古着のまま屋敷内へ戻った。そうして、ドロシーを引き連れながら廊下を歩き、書斎の前で足を止め扉をノックする。
「入れ」
すぐに応答があり、アイリーンは扉を開けて書斎に踏み込んだ。
窓を背に重厚な机があった。そこには書類の束を眺める白髪の男が一人。もちろん、それはアイリーンの父、ナバ伯爵である。
「アイリーン、稽古中に呼びつけて悪かったな」
「いえ、ちょうど終わったところでした」
「剣の方は順調なようだな。魔法はどうだ?」
「あまり芳しくありません。魔法の先生は、私に適性がないと考えておられるようです」
「その件につきまして、旦那様に申し上げます」
ドロシーが口を挟んだ。
「お嬢様の魔法教育を担当する教師は、早々に処刑……もとい解雇すべきかと存じます」
「ずいぶん乱暴だな?」
ナバ伯爵は、ぴくりと片方の眉を吊り上げる。
「あろうことか彼は、お嬢様に魔法の才を授けるためと称して、卑劣にもとある行為に応じるよう申し出たのです」
「それは聞き捨てならんな。すぐに処理しよう」
父が目をすがめ、ひどく剣呑な声で言ったので、アイリーンは事態をいぶかしんだ。確かに、魔法の才を開花させる特別な術があるから自分の研究室に来ないかと言われはしたが、それのどこが卑劣なのだろう。もちろん、アイリーンは申し出を丁重に断った。追加の授業を差し挟む余裕はなかったし、魔法にはそこまで興味を引かれていない。
「しかし、君がその場で片付けてくれてもよかったんだぞ。なぜそうしなかった?」
「侍女が他家のご子息を殴り倒しでもしたら、家同士のもめごとになりかねませんので」
ドロシーは頭を下げた。
「確かに、今は別の厄介ごとを引き受けている余裕はないな」
「別の?」
アイリーンは聞いた。
伯爵は頷き、無言で一枚の紙きれを差し出す。
アイリーンはそれを受け取り、文面に目を通した。そして、彼女はすぐに「厄介ごと」の意味を理解した。
手紙だった。
署名はカノーラ伯爵とあった。
カノーラ伯爵領は、アイリーンたちが属するナガン王国の北に位置する地方で、王国にとって非常に重要な土地である。それと言うのも、ナガン王国とたびたび衝突を繰り返してきた隣国のプロゼンに国境を接するため、要衝となる城や町が多いからだった。従って、カノーラを支配するカノーラ伯爵位は、王の親戚に与えられるのが通例であったし、今は現王の弟が爵位を持っている。
そのカノーラ伯爵の手紙には、かなり不躾な調子で「ナバ伯爵がプロゼン王国と通じているとの噂を耳にした。釈明があれば聞くから城まで来い」と書かれている。もちろん、正式な令状ではないが、王弟殿下が来いと言えば行くしかあるまい。
「このナバは港町だ。国籍を問わず多くの交易船が出入りするから、あるいは勘繰られることもなくはない」
と、ナバ伯爵。
「それにしては、少し唐突に思えます」
アイリーンは考え考え口を開いた。
「講和こそ結ばれてはいませんが、プロゼンとの軍事衝突はもう二十年以上起こっていません。むしろ盛んな交易で、ナガンもプロゼンも税収が上向いているほどです。もちろん、お父様の懐もずいぶん温まっているのでしょうけど」
「お前には、子供らしさを教えてくれる先生が必要なようだ」
ナバ伯爵は苦笑いを浮かべて言った。
アイリーンは、それを無視して続けた。
「カノーラもプロゼンに近いのですから、少なからず人の往き来はあるはずです。ただ、海路と陸路では規模が違うので、カノーラ伯爵はお父様ほど儲かってはいないでしょう。あるいは、それを面白く思っておらず、難癖をつけて来たのかも知れません」
「私も同じ意見だ」
伯爵は同意した。
「彼には適当な付け届けを送るようにしよう。表向きは、長らくの無沙汰を詫びるためとか、まあそんなところでな」
アイリーンは黙って頭を下げた。
「そこでだ」
伯爵の話は終わっていなかった。
「お前には、私の名代としてカノーラに行ってもらいたい」




